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実は人間は「物語の世界」を生きている生き物なのです。
「文明」とか「文化」と呼ばれるものは、その「物語の世界」の中で生まれた産物です。 「悩み」や、「苦しみ」や、「希望」や、「愛」といったものも同じです。 現実世界の中には、そんなものどこにも存在していません。 「神様」と同じで、科学的にその存在を証明出来ないのです。 それは、人間だけが「ありのままの世界」を見ていないし、生きていないということでもあります。 だから、「科学的に存在を証明出来ない」という理由だけで神様を否定してはいけないのです。それをしてしまったら、「悩み」や、「苦しみ」や、「希望」や、「愛」といったものも否定することになります。 そしてだからこそ、子ども時代に「幸せに生きる物語」のプロローグを与えてあげる必要があるのです。 と、いきなり言われても何のことか分からないですよね。 私たちは、薬物や病気などで幻覚を見たり、幻聴を聞くことがあることを知っています。そして、その人が「あるはずのないもの」を見て、「聞こえるはずがないもの」を聞いていることも分かります。 だから、私たちはその人が病気や中毒だと分かるわけです。 でも、それが幻覚や中毒だと分かるのは、そうでない人達だけです。 本人にはそれが「現実」で、それが「事実」です。 ただ、その幻覚や幻聴はランダムに起きるわけではありません。 その人の心の中に存在する物語に合わせて、「見えるはずがないもの」が見え、「聞こえるはずがないもの」が聞こえるのです。 人間の脳には「心が創りだした物語」に合わせて、幻覚や幻聴を勝手に創りだしてしまう能力があるからです。 ですから、「幸せな物語」を生きている人には「美しいもの」が見えるかも知れません。 でも、「苦しみの物語」を生きている人には「怖いもの」が見えるかも知れません。 私の母は、なくなる前数年「統合失調症」だったので、そのような「ありえないこと」をよく語っていました。 母は、「夜、大勢の人が勝手に入り込み、二階で宴会をしている」というようなことをよく言っていました。 そのような物語が先にあって、それに合わせて「音が聞こえた」ような気がしたのか、そのような幻聴があったからそのような物語を創り出したのかは分かりませんが、とにかくそのような言っていました。 そしてそれを証明するために、床のシミを「これがその人達が歩いた跡だ」言い張っていました。「ここに証拠があるから事実なんだ」と言うのです。 統合失調症でも「理解したい」という本能は働いているので、ちゃんと「つじつまの合った物語」を創りだしてしまうのです。 まただから、一度しっかりとした物語が創られてしまうと、その世界から抜け出すのがやっかいになってしまうのです。 そのようなことは常識的に考えたら「あり得ないこと」なんですが、本人にとっては「事実」なんです。というか、それが「事実」であるような物語の世界を生きているのです。 ですから、それを否定してしまったら対話が成り立たなくなります。 そして、同じようなことは精神的な病気でなくても、薬物を使っていなくても普通に起きています。 皆さんが、「この人とは話が通じないな」と感じる時には、皆さんとその人は「異なった物語の世界」に生きているのです。 その理解がないと、自分とは異なった考え方の相手とは対話が出来ません。 でももし、集団で同じような幻聴や幻覚を見ていたとしたら、その人達の間では、それは「現実」として扱われることになります。 「オーム真理教」の人達はそのような状態にいました。 それが部族単位、民族単位、国単位で起きていることもあります。 また、世界単位で起きていることもあります。 「科学こそ絶対だ」というのも、そのような物語の一つです。 「科学こそ絶対だ」ということは、科学では証明出来ないのです。 その点では「神様の存在証明」が出来ないのと同じです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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