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昨日は、「共有するもの」の一つの例として「キャンプ」をあげましたが、そのような「特別なもの」でなくても、もっと簡単に、日常生活の中でも「共有するもの」を創り出すことが出来ます。
例えば、お母さんの手作りの料理の味は「お袋の味」と呼ばれていますが、それもまた「共有するもの」です。 買って来てチンするだけの食べ物は「共有するもの」になりませんが、「お母さんの味」は、家族みんなで「共有するもの」になるのです。 また、「読み聞かせ」は、お母さんと子どもの間に豊かな「共有するもの」を育ててくれます。 親と子が、同じ物語を共有することで、イメージや言葉や感覚を共有することが出来るのです。 遊びもそこから展開することが出来ます。 お母さんと子どもが、「ぐりとぐら」を共有していれば、お母さんは子どもと一緒に「ぐりぐらごっこ」が出来るのです。 いわむらかずおさんの「14ひき」のシリーズを共有していれば、野原で色々な「発見あそび」も出来るのです。 また、お料理作りやお掃除などを一緒にやれば、それに伴う「体験」や、「技術」や、「言葉」をお母さんと共有することが出来るようになります。 「伝える」ということは「共有する」ということでもあるからです。 そこが「教える」ということとは根本的に違う点です。 「言葉」には実際に何かをやっている現場でしか使われない単語や、感覚や、表現がいっぱいあって、そういうものはその活動を一緒にやらないことには伝えることが出来ないのです。 子どもの時に抱きしめられたことがない人でも「愛」という言葉は知っているでしょうが、「愛」の感覚は「愛された体験」がない人には分かりません。 生まれたときから戦争の中で育った子でも「平和」という言葉は知っているでしょうが、その「中身」を知りません。そのため、他者と「平和」を共有することが出来ません。 意味だけなら辞書やネットでも調べることが出来ます。先生が教えることも出来ます。でも、その中味を伝えるためには「体験」が必要になるのです。 そして「言葉」こそが、人と人が共有すべき一番大切なものなのです。 「言葉」を共有することは「心」を共有することでもあるからです。 それなのに、現代人はそれすら学校やメディアに依存してしまっています。 でも、学校やメディアは「意味」を教えてはくれますが、「中味」を伝えてはくれません。 そのため、その言葉では「心」を共有することが出来ません。 お散歩の時に、タンポポが咲いていたら、子どもと一緒にしゃがんで一緒に見てみる。綿毛があったら、一緒にプーッと飛ばしてみる。 すると、この「記憶」と、「体験」と、「時間」が、お母さんと子どもの間に共有されます。 空の雲を見て、「きれいだね」と言ったり、「お魚さんのようだね」といって一緒に雲を見て遊べば、その「記憶」と、「体験」と、「時間」が子どもとの間に共有されます。 ご飯の時に、「美味しいね」といって顔を見合わせても、お風呂に入ったときに「気持ちがいいね」とか「あったかいね」と顔を見合わせても、「共有するもの」は生まれます。 我が家は歌を歌うのが好きでしたから、子どもが小さいときはいつも「歌遊び」をしていました。車に乗っているときはいつもみんなで歌っていました。 ゲーム的に「春の歌」といって、順番に春の歌を歌って、「歌えなくなったら負け」というゲームもやりました。 我が家では「歌」が「共有するもの」としてあったのです。 そのせいか、長女は声楽科に行き高校の音楽の先生になり、合唱を通して知りあった男性と結婚しました。 多くの高校が集まる合唱祭の最中に、舞台の上でサプライズプロポーズをされたのです。 一時、youtubeにもその動画が流れていたようです。 もちろん、結婚式は「歌・歌・歌」でした。 山登りや、キャンプや、自然遊びも、我が家の「共有するもの」です。 絵本や物語も、我が家では「あれ」「これ」で通用する「共有するもの」です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.05.29 09:36:21
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