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人が何かを話すときには、必ずその話を聞いてくれる相手が居ます。そして、「話す人」」と「聞く人」の間に「共有」が生まれます。
人がちゃんと話を聞いてもらうだけで、「受け入れられた」とか、「肯定された」とか、「つながることが出来た」と感じるのはそのためです。 子どももお母さんに話を聞いてもらうだけで、お母さんとの間に「共有するもの」や「つながり」を感じ、安心します。 子どもが、「ねえねえ おかあさん」とか「おかあさん あのね」と言ってきたときに、「なあに、どうしたの」と手を休め、耳を傾けるだけで、子どもとの間に「共有するもの」が生まれるのです。 その「共有する感覚」を知ることで、子どもも「聞く」という能力を育てる事が出来るようになるわけです。 ですから、それを拒否されている子どもは、お母さんの真似をして、お母さんの言葉にも耳を傾けなくなります。 友達の言葉にも耳を傾けなくなります。 そしてそれは、「人の心」に無関心になるということでもあります。 「うちの子は人の話を聞かないで困っている」というお母さんを見ていると、お母さんもまた子どもの言葉に耳を傾けていないような気がします。 子どもが何かをしたとき、クドクドと長い説明ばかりをしていると、子どもも理屈っぽくなり、お母さんに叱られたとき、クドクドと言い訳するようになります。 手を洗うことや歯を磨く事などに色々な理屈をつけて強制していると、智恵の育ちと共に子どもも様々な理屈を付けてそれを拒否するようになります。 指示命令ばかりしていると、子どもは自分を守るために頑固になります。そして、自分より弱い相手に対しては指示や命令を出して支配者のように振る舞うようになります。 暴力的な行為で従わせていると、子どもが思春期を迎え、体力的に親子が逆転した頃から、子どももまた同じようなことを親に対してやるようになります。 それは、「仕返しをしている」というよりも、自分の要求を通す手段として「そのような方法しか知らない」ということです。 実際、幼い子どもに対して暴力的な行為をしている人は子どもに仕返しをしているわけではないですよね。幼い子どもは親に暴力など振るいませんから。 そうではなく、そういう人は「自分の要求を伝える手段」として、親から学んだそういう方法しか知らないのです。 ですから、そのような人に「そんなこと止めなよ」と言っても無駄です。他の方法を知らないのですから。 子どもが幼い内はそのような方法も通じるのですが、でも、そのような方法が通じるのは最初だけです。次第に、子どもは「お母さん(お父さん)の方法」を学習してしまうため、後でもっとやっかいになります。 そうなると力ずくのバトルになります。 と、このようなことを書くと耳が痛いお母さんもいっぱいいると思います。 そして自分を変えたいと思っているお母さんも多いと思います。 でも、残念なことに自分で自分を変えることは出来ないのです。 自分を変えたいと思うのなら、人に変えてもらうしかないのです。 そのような時に一番有効なのは、「子どもの言葉に耳を傾ける」ことです。 子どもに要求ばかりしているお母さんにとっては、これが一番抵抗があることかも知れませんが、それ故にこれが一番効くのです。 だからといって、「子どもの言いなりになりなさい」という事ではありません。 素直に子どもの気持ちに共感しながら、子どもの言葉に耳を傾けるだけでいいのです。 その子どもの言葉に対してどう判断し、どう対応するかは自分で決めればいいのです。 ただし、「子どもの言葉を聞いた後で」ということです。 結果的には子どもの要求を拒否しても、話を聞いてあげるだけで、子どもとの間に「共有するもの」が生まれるのです。 そして、その感覚を感じ取っているうちに、子どももお母さんも次第に変わっていくのです。 実は「聞く(聴く)」という行為は、最も初原的な「共有するための方法」なんです。 「神の言葉を聴く」というのは、神と一体化するための方法です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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