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おととい(12日)のブログで最後に、
つまり、その人の「感覚の状態」は、その人の「心の中の物語」の表れだということです。 ですから、「感覚」を変えるためには、まず「心の中の物語」を変える必要があるのです。 と書きました。 今日はここからの続きです。 私がよく受ける質問に、 子どもがアリや虫を殺して遊んでいるんですが、どうしたらいいんでしょうか。生命を大切にする子に育てたいのに・・。 というようなものがあります。 実際、子どもたちはよくアリを殺して遊びます。 私もアリを殺して遊んだ記憶があります。 でも、別に子どもたちは「殺す」という意識でやっているわけではありません。「生命」という感覚自体が希薄だからです。 最近は夏になるとお店で「カブトムシ」を売っていますが、そのカブトムシで遊んでいた子が足を一本引き抜き、二本引き抜き遊んでいたら、動かなくなり死んでしまったそうです。 子どもは親に「どうして動かなくなっちゃったの」と説明を求めたのですが、親がそれに答えられないでいると、今度はカブトムシを買ったお店に行って「壊れちゃったので取り替えて下さい」と言ったそうです。 でも、これはこの子が残忍だと言うことではありません。子どもの感覚とはそういうものなんです。 逆に、トーマスやカーズが好きな子は、無機的なプラスチックで出来た電車や自動車のオモチャに生命を感じたりしています。 だから、壊したりはしません。 どうしてこのような違いが生まれるのかというと、トーマスやカーズは、もともと彼らが生きているかのように扱われている物語の中の存在だからです。 子どもたちは心の中でその物語の世界に入り込み、いつも一緒に遊んでいるので、トーマスやカーズが「生きているもの」のように感じる感性が育っているのです。 それに対して、その物語を持たないカブトムシは、子どもにとっては単なる「物」に過ぎません。 だから「死んだ」ではなく「壊れた」なんです。 実は、「物」に生命を与えているのは「物語」なんです。 科学的には別の説明もありますが、感覚世界においては「物語」が「物」に生命を与えるのです。 人間は「物質世界」だけでなく、「物語の世界」を生きる生き物でもあるのです。 これは人間だけの特徴です。 頭の中の知識がどんなに進歩しても、人間の感覚世界は古代人のままなんです。 そのことを無視しているから、心とからだが分離しておかしなことになってしまっているのです。 昔の人は、水や木や石や大地といった「物」に対しても、人間と密接につながった物語を語り継いでいました。 ですから、そういうものを大切にし、時には神様として祭っていました。 でも、その物語を失ってしまった現代人には、それらは単なる「物」や「資源」に過ぎません。 ですから、何百年と生きた木でも平気で切り倒します。無数の生き物が住んでいる山も平気で切り崩します。地域の生態系を支えてきた田んぼも平気で埋め立てます。 革靴を履き、肉を食べていても、昔の人のようにそのために奪われた命を供養する気持ちもありません。「物語」を忘れてしまった現代人にはそれらは単なる「物」に過ぎないからです。 それでいながら、アリを殺している子どもには「残酷なことはやめなさい」と言い、お花を摘んでいる子どもには「可哀想だからやめなさい」と言っています。 おかしな時代です。 でもだからといって、「どんどんそういうことをやらせなさい」ということではありません。 だからこそ、子どもたちに「物語」を語ってあげて欲しいのです。 「アリさんの物語」を聞いた子は、「殺して遊ぶ」のではなく、アリさんの活動に興味を持つようになり、「観察して遊ぶ」ようになるでしょう。 戦争においても同じです。 戦争反対をいくら叫んでもそれ自体が戦争と同じようなものです。それは「勝った負けた」が繰り返されるだけの世界です。 戦争では敵兵は単なる「数」として扱われます。そして、いっぱい殺せば点数が上がるような仕組みになっています。これはゲームの世界と同じです。だから、殺しても罪悪感を感じないのです。 でも、敵にも家族がいて、時には子どもがいて、仲間がいて、恋人がいて、死んだら悲しむ人が何十人もいて、子どもの頃にはこうして遊び、こうして喜び、こうして泣き、という物語をイメージすることで「数」は「人」になります。「物」ではなく「命あるもの」になります。 そうすると殺せなくなるのです。 概念に対して概念で対抗するのではなく、力に対して力で対抗するのでもなく、理屈に対して理屈で対抗するのでも、価値観に価値観で対抗するのでもなく、「生命の物語」を想い出すように働きかけるのです。 すると、からだの中の「生命の記憶」が「みんなが幸せになる道」へと導いてくれるのです。 子育てでも、子どもが生きている物語、子どもがこれから生きて行くであろう物語をイメージすると虐待することが出来なくなるのです。 「虐待してはいけません」とただお母さんの行為を否定するだけでは虐待は減らないのです。 周囲がそのお母さんが生きている物語、育ってきた物語をイメージして受け入れてあげることで、そのお母さんは自分の生命を取り戻すのです。 自分の物語を失ってしまっている人は、自分の生命を失ってしまっている人でもあります。 生物学的には確かに生きているのですが、人間としての生命を失ってしまっているのです。 そういう人が、子どもの生命に関心がないのは当然のことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.04.14 10:40:42
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