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昔、まだ人々が自然と共に素朴な生活をしていた時代にはみんな自然と共に育っていました。近代化された現代社会では森の中で子育てをすることは特別なことなのかも知れませんが、昔はそれしかなかったわけです。
じゃあ、そのような自然の中で育っていた時代の子どもたちはみんな素敵な大人になっていたのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。 歴史などを学んでも、また昔話などを読んでも、そこにはちゃんと善人もいれば悪人もいます。意地悪な人もいれば、優しい人もいます。子どもの周囲の環境や生活スタイルが変化してもそれは変わらないのです。 じゃあ、何がそのような「よい人、悪い人」、「意地悪な人、優しい人」という違いを生みだしているのかということです。 子どもたちの育ちには「自然体験」が必要です。自然体験はたくましさと智恵を育ててくれるでしょう。確かに、その点に関しては現代人より昔の人の方が優れていたと思います。そしてそれは、特に現代の子どもたちには必要なことです。 でも、「人間性」の育ちには「自然体験」だけでなく「人間体験」が必要なのです。 子ども達が素敵な大人になるためには、「自然体験」と「人間体験」の二つが必要なのです。 それは人間が「自然的な要素」と「人間的な要素」の複合体だからです。ですから、どちらも欠かすことが出来ません。「自然体験」だけで「人間体験」が少なければただの野生児にしか育たないのです。 でも、現代の子どもたちの「自然体験の不足」を訴える人は多くいますが、「人間体験の不足」を訴える人は多くいません。そもそも「人間体験」という概念自体がないでしょう。実はそれが現代の教育を考える時の一番大きな問題なのです。 子どもたちに「自然体験」を与えることはそれほど難しくありません。キャンプなどでも簡単に体験できます。また、日常的に自然の中で遊ばせるようにすればいいだけのことです。(ただし、本当の「自然体験」は「人間体験」とセットになっています。) でも、「人間体験」を与えるのはそう簡単なことではありません。なぜなら、「自然体験」は「自然という他者」を体験させることなのに対して、「人間体験」は「人間の内側」つまり「心」を体験させることだからです。だから、ただ大勢の人間がいるところに連れてきても「人間体験」は出来ないのです。また、ただ「素敵な大人」と出会わせるだけでも「人間体験」は出来ません。 「人間の内側」は外側からは見えないからです。もちろん、知識を覚えさせても何の役にも立ちません。 では具体的には、その「人間体験」とはどのようなものかということです。 例えば、「お話し」や「物語」を聞く時、子どもたちは「人間の内側」と触れあい、「人間体験」をすることが出来ます。 絵を見たり描いたり、歌を聞いたり歌ったり、ごっこ遊びや劇遊びをする時にも「人間体験」をします。ただし、「上手下手」にこだわると、「人間体験」は出来なくなります。「内側」に入れなくなってしまうからです。 「学ぶ」ということを通しても「人間体験」はできます。ただし、ただ知識を暗記するだけではダメです。体験から知識が生まれる過程を体験させてあげる必要があるのです。つまり、「学問」というものが生まれた最初の所に子どもたちを連れて行ってあげるのです。すると、子どもたちは「人間体験」をすることが出来ます。学問の始まりはもともと非常に人間的なものだからです。 また、仲間や大人と「想い」を共有して活動する時にも「人間体験」は出来ます。「想いを共有する」ということが「内側の体験」でもあるからです。 さらには、人々が守り伝えてきた伝統や芸能や手工芸などを伝えることも「人間体験」になります。 簡単に言うと、人間の心やぬくもりを感じるものを体験させたり、伝えたりすることが「人間体験」になるのです。そしてそれは、「人から人へ」という手渡しでないと出来ないことです。手渡しで渡さないと「心」や「ぬくもり」は消えてしまって、ただの「情報」になってしまうからです。 機械とばかり触れあっていたら「人間体験」は出来ないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.30 06:20:03
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