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世の中が簡単で便利になり、仕事も遊びも機械があれば一人でも出来てしまうようになりました。
子どもも大人も、家の外に出なくても、仲間がいなくても、誰かと直接会って話したり、一緒に行動したりしなくても困らなくなりました。 情報のやりとりだけなら、メールやラインのような「文字によるコミュニケーション」だけで充分です。動画を見せ合ってコミュニケーションを取ることも出来ます。 そしてそのような状態に問題を感じている人は多くないように思えます。特に、子どもや若者はそれがもう当たり前の日常になってしまっています。今の若者達は、スマホや様々な便利な機械がない生活を想像できないでしょう。 でもその結果、「人と人のつながり」がますます薄れ、「生きることに対する不安」を感じる人も増えて来ました。「自由」を感じる人も減ってきました。 状況的には自由なんですが、その自由を実感出来ない人が増えて来たのです。 遊具しかない公園に連れて行かれて「自由に遊んでいいよ」と言われても、一緒に遊ぶ仲間がいなければ楽しくもないし、自由を実感することも出来ませんよね。そんな感じです。 現代人は、他者からの束縛はないのに不自由なんです。 また強い不安も感じています。 人は、危険がないから安心を感じるのではありません。危険があっても、「つながり」に支えられているのなら安心を感じる事が出来るのです。 なぜなら、「不安」は外側に実在するものではなく、自分の心が創り出しているものだからです。そのため、いくら「簡単で便利で安全な生活」と「自由」を与えられても、心が「つながり」によって支えられていなければ「不安」は勝手に生まれてきてしまうのです。 また、「つながり」を失った社会では別の問題も発生しています。それは、「言葉が通じなくなってしまう」という問題です。極端なことを言えば、「太郎くんは太郎語を話し、花子さんは花子語を話している」といったような状態です。 聖書の中に書かれている「バベルの塔」のような出来事が、今実際に起きているのです。 なぜなら、言葉は「体験を共有するためのもの」として生まれ、伝えられてきた道具だからです。個人の体験をみんなで共有するために言葉が生まれたのです。ですから、体験が共有されなくなってしまった社会では言葉は必要がなくなって消えてしまうのです。 大工さんが使っている言葉は大工仕事の現場で、作業や体験したことや情報を共有するために生まれたものです。 森の中で暮らしている人たちと、町の中で暮らしている人たちとでは言葉が違います。森の中で暮らしている人にとっての「木」は、大地から生え、春・夏・秋・冬と変化する木です。でも、都会の人にとっての「木」は、椅子や家などの材料として加工された木です。 同じ意味で「木」という言葉が通じるのは、同じ状態の「木」を見て体験したことがあるもの同士です。 同じ意味で「死」という言葉が通じるのは、何らかの形で「死」を見たり体験したもの同士です。 「夕日」を見たことがない人に、自分が見た「夕日」の話をしても通じないのです。 情報としては通じても、実感が通じないのです。 今時の子ども達はアニメやゲームやyoutubeで言葉を学んでいます。そのため、異なったアニメやゲームで遊び、異なったyoutubeを見て育っている子とでは言葉が違うのです。そのため子ども同士でも言葉が通じません。 「幼児期に森の中で遊び、生き物たちと関わりながら育った子」と「部屋の中でおもちゃやゲームや機械ばかりに囲まれて育った子」とでは言葉が違うのです。 そして、言葉の違いは感覚や、心や、思考や、価値観の違いとしても表れます。「部屋の中で、一人でおもちゃやゲームに囲まれて育った子」にとっては、「イジメ」もゲームの一つですが、「森の中で仲間と一緒に育った子」にとっては「イジメ」はゲームではないのです。 教室の子ども達と話していても、話が通じないことがしょっちゅうあります。でも、子どもは「なんで先生は僕が言っていることが分からないのか」ということが分かりません。他の言葉を知らないのですから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.20 09:12:24
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