今日は家のあたりに伝わる、古い風習について書き記しておこう。それは古い田舎に残っている屋敷という集まりです。地名も知多市岡田字向屋敷だが、向屋敷の上屋敷(下屋敷もある)と呼んでいる。
![DSC03548.JPG](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/04/0000379704/40/imgcbc47d96zikazj.jpeg)
家の裏山には二つの小さな祠が祀ってある。ひとつは秋葉神社(本宮は遠州、天竜川の奥にある)で、屋敷とはこの秋葉信仰によって支えられた地縁、血縁の組合組織でおそらく江戸時代から続いている。
![DSC03550.JPG](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/04/0000379704/41/imgcfee689ezik4zj.jpeg)
もうひとつ、小さな祠が祀ってあり、こちらは白山神社の分祀である。全国に3000社くらい白山神社はあるらしいが、総本山は石川県白山市のひめ神社らしい。岡田の里組(里、中、奥と別れており、祭りの時にはそれぞれの山車が出る)には10の屋敷が残っているが、白山神社も祀っているのは向屋敷の上屋敷だけである。
![DSC03551.JPG](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/04/0000379704/43/img183d669bzik2zj.jpeg)
この祠の中を見てみると、古い木簡やら巻物が入っていて、一番新しいもので明治14年となっている。白山神社へお参りに行ったことはないが、昔は行っていたのだろう。
![DSC03232.JPG](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/04/0000379704/44/img3165284ezik3zj.jpeg)
屋敷では年に4回集まって、正一位秋葉神社と書いた掛け軸を揃って拝んで、食事をする。旧暦の正、五、九月がお日待ちと言い、十二月は”しこう”と言う。幹事は持ち回りである。全員が竹内であり、地縁、血縁で結びついており、新しく他所から来た人は入れてもらえない。それぞれの家の当主が出るが替わりが出ることもある。お日待ちは会費3500円、”しこう”は4500円、出れない家は出不足を1500円出す。掛け軸にお神酒を供えて皆が拝んだあと、順番にお神酒をいただく。幹事(会計)は順番に持ち回りで、”宿”と言う。宿持ちでお酒を1本(一升)だす。最近飲めない人が多くなり、半分くらいは私が飲む。
屋敷の中に萬丈亭というつぶれそうな料理旅館をしている家があり、場所はだいたいそこでする。それぞれに屋号があり、一番左に座っている長老は当主はゆきのりさんだが、屋号では”こえむさ”と呼んでいる。昔小右衛門という人がいたらしい。ちなみにうちは”じゅうべさ”と呼ばれている。江戸時代に重兵衛という人がいたらしい。
この集会では飲みながら、世間話から家の話、長老の昔話などを聞き、お互いの絆を深める。家に祝い事があれば、お酒を1本出す。
屋敷でやることは、年に4回集まる食事付き集会以外に、お正月とお祭りの幟立て、十二月は昼に裏山の祠の掃除、十年に一回回ってくる遠州の秋葉神社本山の代参、そして屋敷で葬式が出たときには、総出で受付やら駐車場係りやらをする。宿に当たった人は、もし里で火事があれば、掛け軸を出して拝む。
もうひとつ、隣組というのが別にあり、これは歴史とは関係なく新しく来た人も入っていて、回覧板を回したり、道普請をしたりといったことをする。屋敷は随分がんじがらめで煩わしいと思う反面、他所の人が入ってくるとすぐに判り、防犯に役立ってもいる。
私の在所の安藤家も同じ里組だが、こういう屋敷という風習はない。多分江戸時代でも新しいころに入ってきたのだと思う。私は竹内家に養子に来て、第何代目かの”じゅうべさ”の当主になった。私が来た33年前には屋敷に16軒の竹内が入っていた。その後、跡継ぎが1人もいなくて消滅したり(子がなくても、両もらいの養子で続いている家もある)、あるいは遠くへ越して行って抜けたりで3軒が減った。新しく入ってくることは絶対ないので、多分300年くらい先には誰もいなくなる。
そろそろ、うちも次の跡取りを誰にするのか決めなければならない。