2245554 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ひまじんさろん

ひまじんさろん

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Free Space

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

自動車の話 New! ひよこ7444さん

死んでも不幸を離し… New! ぼちぼち7203さん

無くて七癖 ♪はて!? New! ♪テツままさん

中間の性 New! k-nanaさん

ニュース雑感(自民の… みらい0614さん

「あなたの代わりに… Mドングリさん

楽天ブログも終わっ… Dr.悠々さん

サツマイモの苗、焦… つるひめ2004さん

スチームベジ megumiaolさん

宇宙のしっぽ 小林とむぼさん

Comments

msk222@ Re[1]:被災地支援(01/07) みちのくはじめさんへ ぼくの場合、感情の…
みちのくはじめ@ Re:被災地支援(01/07) こんにちは。みちのくはじめです。 私たち…
aki@ Re:被災地支援(01/07) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
msk222@ Re[1]:パレスチナ問題をひもとく(防備録)(10/24) maki5417さんへ 情報ありがとうございます…
maki5417@ Re:パレスチナ問題をひもとく(防備録)(10/24) ハマスとは  ハマスとはアラビア語の「…
msk222@ Re[1]:リアルすぎて恐いドラマ「THE DAYS」(06/12) ユトプスさんへ ユトプスさん、お久しぶり…

Freepage List

2013.05.27
XML
カテゴリ:日替わり日記
東北の海

先週の木曜日から日曜日にかけて、友人と東北地方の太平洋側を縦断してきた。
同行した友人とは高校時代に芭蕉の「奥の細道」を辿って東北地方のバックパッカー(当時は無銭旅行)を共にした友人。
数十年の時を経て、大震災と津波以降の東北を見ておきたいとの想いで旅立った。
実は地震以降、福島には何度か足を運んでいるが、宮城、岩手、青森についてはまったく肉眼で確認していなかった。
まずは青森の八戸まで一直線に行き、そこから南下してみることにした。
港町である八戸市は、港湾と共に発展してきた。臨海部に火力発電所、製紙業、非鉄金属工業などの工場が相次いで進出し、工業港として発展した街だ。
2011年3月の地震に伴う津波により港湾が壊滅したが、岩手県以南よりは比較的被害が少なかったようだ。ただし、周期的に発生する十勝沖地震に伴う巨大津波が発生した場合等は市内の被害が大きくなると考えられていて、防災・減災計画の見直しに迫られている。
震災の痕跡はほとんど見られなかったことから一安心、この街の名物である八食センターで買い物、食事をして岩手方面に向かった。
八食センター
岩手県での震災・津波の被害者は宮城に次いで大きく、4,671人が亡くなったとされているが、その後の震災関連死で、さらに相当数の人が亡くなっていると思われる。
テレビの朝ドラ(あまちゃん)で久慈市が有名になり、観光客も訪れているなど遠目には美しい三陸の景色だったが、たが海岸線はどの町も西部劇の荒野を思わせる荒涼とした景色が拡がっていた。
かつての大槌町役場
宮古、山田、大槌と壊滅した町中も瓦礫は片付けられ、ちょっと目にはどこも広々とした海の見える景色が拡がっていたが、その広大な土地には道路があり、家の土台があり、あちらこちらで重機が黙々と土台やビルの残骸の解体作業をしていた。
注意して見ると、子どもも亡くなったのだろうか所々に花やぬいぐるみなどが飾られていた。
2013-05-24 13.38.23.jpg
その晩は釜石に泊まることにした。チェーン展開しているホテルではなく、地元のホテルを探し、落ち着くととりあえず町に出た。
釜石市は、三陸復興国立公園の中心に位置し、世界三大漁場の一つ太平洋漁場の一角をなす三陸漁場と典型的なリアス式海岸を持つ市である。
そして何より、近代製鉄業発祥の地であり新日鉄住友金属の本拠地として、最盛期の人口は10万人にもなったがが、高炉の休止に伴い現在は3.7万人ほどに人口が減っている。
僕らが高校時代に泊めていただいた小学校は移転されていて、跡地には仮設住宅が密集していた。
2008年に巨大津波などの水害に耐えられるように設計・竣工された「釜石港湾口防波堤」も決壊し、大きな被害が出たが市内に12校ある小学校はどれも的確な避難がされて、学校での犠牲者は出なかった。
夕方からは名物の「呑ん兵衛横丁」に出かけた。
仮設での飲んべえ横町ママさんは注ぎ上手酒はおいしい
これは、震災や津波で店を失った飲食店が集って、仮設の建物に軒を連ねている。そのひとつの「とんぼ」という店に入った。ホテルから美味しいものを食べたいならと紹介された店だ。
カウンターのなかには60代後半と見受けられる女性がいて、この人がママ(店主)だった。中には埼玉から来たという夫婦連れと50歳ほどの女性が客としていた。
地酒とおまかせで料理を注文すると、漁港が近くにあるだけに始めて耳にする珍しい魚の料理をつぎつぎに出してくれた。
酒や料理を口にしながら、居合わせた客同士で料理談義などを始めたが、やはり行き着くところは震災・津波の話となっていった。
地元の人だという50歳の女性は、夜には毎日のようにここに来ているのだという。自分はマンションの3階に住んでいたが、屋上に避難して何とか助かったが、妹と車を津波にさらわれ、可愛がっていたペットも居なくなり、夜独りで部屋にいることができなくなったのだという。
ママも店と家を津波にもって行かれた。
「もし、津波が夜だったら今生きてはおられなかったでしょうね…」という。店のあった場所は津波の直撃を受け、跡形も無い。
埼玉からの夫婦は、自分の実家の家族のなかに犠牲者がいた。移転したり、家の跡地の権利関係などの確認のために何度も何度も足をはこんでいるのだという。
家族や親戚の身元確認がとても辛かったという。見たくない遺体、しかし一日でも早く探してあげたい。地獄のなかを彷徨い歩くような日々を送った。
それぞれが自分の身の上を語るうちに、うっすらと涙を浮かべていた。そして、ポツリと呟いた。
「でも、原発事故で帰れないでいる人たちにくらべたら、私たちまだましのほうよね。こここで、こうして飲んでいられるもの…」
本当は飲まずに済めばそうしていたい。こんな言葉でしか、自分を慰めることができない心中を思った。
南三陸町
このつぎの日には、死者行方不明者800名ほどを出した南三陸町を始め、甚大被災地を連続して訪れることになるのだが、そこで美容院をしているという女性の体験談を紹介して、とりあえずはここまでにしたい。

地震の時は姉と経営する美容院にいました。立っていられないほどの揺れで、収まった後は津波から逃げる準備をしました。
前年2月のチリ大地震津波では避難が深夜に及び、寒さと空腹がつらかった。
教訓から毛布やコメ、カセットコンロなどを車に積み、母を乗せて高台にある志津川中に急ぎ、午後3時すぎには避難を終えました。
それから約20分。津波が砂煙を上げゴーゴーと近づいてきて、気付いたら眼下一面が海でした。津波は上からザブンと来るのではなく、海面がガーと一気に膨れ上がるんですね。
津波は優に10メートルを超え、JR気仙沼線にぶつかり、家をメリメリ壊し、丘に漁船を運び、渦も巻いていました。雪の中でその光景を眺めながら、「この世はもう終わりだ」と思いました。
中学校には生徒ら約400人が避難していました。姉がおかゆを作り、高齢者らに食べさせて寒い夜をしのぎました。
昔から「地震が来たら津波!」とたたき込まれて育ちました。教えを守って逃げたから、今があると思っています。
福島のほうは原発でもっと大変でしょう。それでも再開するんでしょうかねぇ。教訓を学ばない日本はいつか滅びてしまうんじゃないかと、福島から逃げている人たちがかわいそうで、本当に心配になるんです……。
震災当時の小学校
震災当時の小学校



読了感謝
蝶クリック








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013.05.28 00:49:04
コメント(2) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.