●今日は文化の日「太宰の住んでいた町」
●今日は文化の日「太宰の住んでいた町」私の家から脇道を一本入って20メートルほど歩いた場所に、小さな石碑が建っている。戦前、この場所に新婚間もない太宰治が妻・美智子と8ヶ月ほど暮らした家があった。石碑は、その記念として大分前に建てられたものだ。太宰治の命日「桜桃忌」(6月19日)には、近所の神社に太宰ファンが集まるのが恒例になっている。太宰が、新居をこの町に定めた理由は至極単純で、近所に酒屋、煙草屋、豆腐屋という、彼の生活に不可欠な店が揃っていたからだという。酒と煙草は太宰らしくてわかる気がする。では豆腐がどうして欠かせないかというと、実は太宰は歯が悪く、堅い食べ物は苦手だったらしい。そこで好んで豆腐を食べていたという。妻・美智子の回想には、こんなことが書かれている。「太宰は毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、…ご当人は飲みたいだけ飲んで、ぶっ倒れて寝てしまうのである…」豆腐を肴に日本酒を煽る太宰の姿が目に浮かぶ。酒と煙草と文学と女‥‥。男としては、心のどこかでこういう破滅的な生き方に憧れてしまう。太宰がこの町に住んでいたのは、もう60年以上も前のはなし。町の風景もすっかり変わってしまった。太宰が通ったでいた煙草屋も豆腐屋もいまはなく、跡地は駐車場になっている。酒屋と銭湯は、建物は違うがいまでも商売を続けている。この銭湯には、太宰と親しかった井伏鱒二も一緒に通ったと言われている。おそらく一風呂浴びた後は、豆腐で一杯ということになったのだろう。太宰が住んでいた家の跡地には、いま小さな白いマンションが建っている。我が家の二階から、その建物が見える。私が子ども頃、その場所には確か古い日本家屋が建っていたはずだ。父の話では、その家は戦前からそこにあったようなので、おそらく太宰が暮らしていた家だったのだろう。幼い頃、私は毎日のようにその古い家の前を通って、近所の神社に遊びに行っていた。しかし、その家が古い家だったというだけで、平屋だったのか二階建てだったのかさえよく憶えていない。ましてや、子供だっだから、そこに文豪・太宰治がかつて住んでいたことなど知るよしもなかった。秋の夕暮れははやい。いつの間にか、部屋がオレンジに染まっている。窓の向こうに、はるか遠く八ヶ岳の稜線が見える。-----------------------------------------------◆クイズ◆『さて、この町はどこでしょう?」-----------------------------------------------