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散文小径

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2011.01.09
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 2011年正月より、このblogは内容一新されました。もう、馴染んでくれたかな?
 房総里見氏を夢酔流の私見を交えながら、さあ、一緒に、勉強していきましょう!


               ◆  ◆  ◆


 里見義実の房総上陸伝説。原点は白浜にありました。ここ白浜は、里見義実がやってくる以前、上杉方の木曾氏の所領とされています。安房国は上杉支配という看板の下、実際には在地小豪族たちが足を引っ張り合っていた群雄の地であったとされます。
 統一されていない国は、安房に限らず各地に存在しました。
 得てして統括する大名に乱れがあると、その国の治安も乱れる。この頃の関東は、享徳の乱により、大きな戦乱の底に沈んでいました。

 ここで、たびたび登場する享徳の乱をひも解いてみましょう。


◎ 享徳の乱

 享徳の乱、享徳3年12月27日~文明14年11月27日に起きた戦乱です。日本史的にいえば、ちょうど室町時代8代将軍足利義政の頃に起きた関東地方の内乱です。
 鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大して戦国時代の遠因となったもの、ですね。
 ここで、名称的なキーワードが揃いました。

鎌倉公方……里見義実の安房入り伝説の原点である主家。
足利成氏……里見義実が主と仰いだ人物。彼の父は足利持氏。
上杉憲忠……彼の父・上杉憲実は持氏の仇的存在。

 これが、享徳の乱の発端です。

 この享徳の乱は、まず勢力を二分化させます。足利派か、上杉派。そもそも先代の遺恨から、忘れた頃に発した大乱ですからね。これのどちらに与するかを左右したのは、縁故であり利己であったことでしょう。
 当然ながら、安房国も二派に分裂した訳です。このときの安房は、二派あいまぜの小豪族が睨み合っている状況でした。
 このとき割拠していたとされるのが、次の豪族たちです。
 安房郡……神余氏・沼氏・安東氏・安西氏 
 平群郡……山下氏・佐久間氏・多々良氏
 長狭郡……東条氏・工藤氏
 朝夷郡……真田氏・丸氏・簗田氏・木曾氏
 この四郡をして、安房国は細分化されており、各々足利・上杉の二派で小競り合いをしていたのです。
 里見義美は朝夷郡の白浜へ上陸しました。白浜は朝夷郡上杉勢力の中心地でした。義美は、神余氏を下して白浜に基盤を確立していきます。このときいち早く軍門に下った木曾氏は、里見家臣として臣従していくことになるのです。


 こんな地方の戦乱を、室町幕府は朝廷鎮静することが出来なかったものでしょうか?

 当時、室町幕府は10年の間に6代・義教暗殺、7代・義勝早世と将軍職の不幸が続き、8代・義政は政治に苦慮していました。足利成氏に肩入れするものの積極的に関東への介入することも儘ならず、関東は荒れに荒れたのです。のちに京都を焼き尽くし、戦国時代の引き金となった応仁の乱は、享徳の乱の最中に勃発します。
 いうなれば、戦乱の導火線は応仁の乱に非ず、この享徳の乱といっても過言ではないでしょう。

 享徳の乱の渦中、関東には動乱収束の救世主のような人物が登場します。大田道灌、上杉家の家宰、今日でいう家老という立場でしょう。
 その頃になると、関東は更にぐちゃぐちゃになっていました。
 足利家VS上杉家に加え、双方が分裂して覇権争いを始めていたのです。上杉家は本家といえる山内上杉家と支流の扇谷上杉家に分かれていました。大田道灌は扇谷側の家宰だったのです。不幸にも彼は、皆さんご存知のように、主人である扇谷上杉定正に暗殺されてしまいます。
 里見家と大田道灌の直接対決は、史書のなかに登場しません。
 この点から察するに、里見氏の足跡は、常に戦乱の外側だったようです。里見義実は安房の豪族たちを屈服もしくは従えて、徐々に勢力を拡大していったことと考えられます。
 
 この当時を記録する史書では、里見氏の記述に一貫性がありません。恐らくはリアルタイムじゃなく、後年記されたため、私見や創作がない交ぜになったのではないか。夢酔はそう睨んでいます。
 例えば、源義経のことを現代人は『義経記』から知ることができます。しかしその発表は、室町時代。幕末前夜の無名な英雄を現代人が発表するようなものですから、緻密さを求めるのは無理というもの。
 里見家も、同様の切り口で発表されました。


 清和天皇の御末八幡太郎義家の三男式部大輔義国より十二代の後胤刑部少輔家基公と申は応永永享の頃の武士也。其頃、天下大に乱れて鎌倉の上杉も臣として君を亡す。然る間、足利一族も所々に落行給ふ。去程に関東の諸士、上杉を憎み結城に於て足利春王殿安王殿を大将として嘉吉元年義兵を起し家基味方に参らる。然れ共、足利終に討負て家基討死也。其御子里見刑部少輔義実公、結城より安房国へ落給ふ。是、安房里見の元祖也。
   里見刑部少輔義実公の事
 結城より木曽右馬丞氏元堀内蔵人貞行御供にて三浦へ落、三浦の兵を頼んて安房の白浜へわたる其時、神余か家臣山下佐左衛門、謀反を起して密に君を殺害し、神余の郡の主となる。是より此郡を山下郡と号す。去る間、丸安西、彼無道を憎んて左衛門を討、此郡を分取るに付て俄に合戦出来して安西討勝。然る間、丸神余か家来とも義実公を大将として即神余か勢を催して千台に打出給ふ時、御勢五十騎になり給ふ。其時の陣場の橋を五十騎橋と名付けり。貞行三浦衆は丸か勢を催し千台村に来て安西の城に押寄んと馬を早む。安西も瀧田河原まて打出陣取て居けるか、いかゝ思けん。降人に出しより主従の契約在て安西を先手にし給ひ東条に押寄す。東条は上総の大瀧正木と一味して金山の城に楯籠り文安二年六月八日、合戦初り九日の夜、落城。東条は討死し正木は敗北す。同年正月廿三日、正木と合戦始り。廿五日に正木降参。合戦の次第は軍記に見へたり。義実公の御前は上総国真{里欠カ}谷殿の御娘也。家老は木曽堀内三浦安西也。義実公は長享二戊申四月七日、七十二歳にして逝去。杖珠院殿建宝興公居士と号す。白浜に葬る。
               (『里見九代記』)


 上総国には武田入道(信長)が討ち入り、庁南の城と真里谷の城を拠点として父子で立て籠もって国中を押領した。房州の里見はこれに力を得て、十村の城から蜂起して国境へ軍勢を出し、あちこちを押領した。簗田河内守は関宿から討って出て、武州足立郡をなかば以上押領し、市川の城を取った。
 上杉方も、三浦介義同は三浦から蜂起して相州岡崎の城を取り、近江を押領した。大森安楽斎入道父子は竹の下から蜂起し、小田原の城を拠点として近郷を押領した。また、武蔵国では上杉入道性順と子息の右馬助顕豊が武蔵人見に討って出て、上州の味方と一緒になり、深谷の城を拠点に定めた。
 成氏はこれを聞き、敵に猶予を与えてはいけないと、同十月十七日、鳥山右京亮と高因幡守を先駆けとして二百騎余りの軍勢を遣わした。
               (『鎌倉大草子』)


 春王安王も虜られ郷へ引上けるか上意下りて濃州垂井の道場にて二人共に失ひ申ける。此時大合戦にて城方一万余人そ討れける。去程に義実は父の諫に任て木曽左馬之允氏元堀内蔵人貞行を随身し三浦の方へ落給ひける。両人に向て申されけるは、今は結城も落城せり、後日の用意になる事もやあらん、先三浦を差置て是より安房国へ渡らんとて海人を頼て浜地に下給ひける。海人承はり急き船を浮ければ折節順風吹送り白浜といふ在所に著にけり。其頃、安房国には四人の郡主を立置れける。平郡には安西式部大輔勝峯、勝山に住す。安房郡には金余左衛門介景春、神余に住す。朝夷郡には丸右近介元俊、石堂谷に住す。長狭郡には東条左衛門督重永、永泉に住す。彼等四人互に心を示し合せ分内を守り居りける。然るに金余か家臣に山下左衛門と云者あり。主君景春を討亡し己郡主と押成りて郡をも山下郡と名を改、放逸無懺に働けり。丸安西は是を見て彼か無道国の汚也とて示合、山下を討て捨、郡内を分取。丸安西と口論出来り又俄に戦起りて暫く挑たりしか安西終に打勝たり。丸は此時滅亡せり。爰に金余か浪人共、皆一同に言合、義実公を大将に頼たてまつり奉公申はやといふ。木曽堀内時至れりと悦んて金余か残党を招集る所に三浦より志摩守義明といふ人渡り来り給ひける。御大将に対面有て申されけるは、先年結城合戦に足利の落人当国へ渡らせ給ふ処に今度郡主共俄に合戦仕出し浪人共貴殿を大将に奉頼之由承はり及ひ小勢なれとも軍兵二三百人引率し馳参る、無骨なれ共与力仕らんす、抑も我先祖も往昔治承四年、頼朝公伊豆の石橋山に旗を上給ふ時、与力仕たる三浦大助か末孫に候、その時頼朝公小勢にて有けれは主従たゝ七騎に打成され一先当国島崎といふ所へ渡り給ふとかや、先祖大助は三浦衣笠の城にて自害せり、その後御運開けて関八州の侍共頼朝公に加勢し奉り終に平家を討亡し天下を握り給ふなり、我今先祖大助か例にしたかひ公に与力仕とその給ひける。大将にも御悦喜斜ならす。厚く遇待まし/\ける。
               (『里見代々記』)



 これに創作伝奇「南総里見八犬伝」がミックスされ、奇々怪々なる有名人なれど真実しらずという、里見家の不幸が始まったのはいうまでもございません。
 こういう形で、ネームバリューだけは、江戸府中を駆け巡った里見氏。
 この謎というヴェールは、今日を以ても解き明かされません。
 それもまた、ありと、思ったりするのは、夢酔の不謹慎かしらん。



               ◆  ◆  ◆



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 夢酔の小説をベースとした劇団き楽座「萩原タケ物語」。3月に一件、依頼公演がほぼ決まったようで、これは大変有難いお話しです。小説家ではなく、舞台脚本家としての夢酔も、戸惑いつつ、万人受けしたことを安堵しております。
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 舞台のセット商品でも、ピンでも、どちらでも可です。こちらの連絡先も、劇団き楽座まで!
 でも、終わった小説がいつまでも尾を引いていく。これが、作品というものの重さなのかなと、近頃、夢酔は今更のように考えております。






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Last updated  2011.01.09 07:24:44
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作楽@ Re:随筆・あっそう!里見発見伝(02/18) 引っ越しされるんですね!了解しました。
としぞう@ はじめまして うちも楽天からアメーバに変わりました。 …
夢酔 藤山@ Re:奥平家と大久保家(02/06) いっちぃさん 仰せの通りです。 この…
いっちぃ@ 奥平家と大久保家 奥平信昌の娘が大久保忠常(忠隣の嫡男)に…
夢酔 藤山@ こんばんは 10月1日の全国里見一族交流会・館山大会に…
キミジイ@ 御支援の協力 夢酔 藤山様 署名活動はどの位の人数が…
いっちぃ@ 万喜城下より ご無沙汰しておりますm(__)m 近年の成果か…
史進@ おめでたいですね こんばんは、藤山先生 稲村城と岡本城が…
夢酔 藤山@ Re:ありがとうございました(10/05) >由愛さん 大役、お疲れ様でした。…
由愛@ ありがとうございました 夢酔藤山さま 館山ではありがとうござい…

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