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どもども。
開始から一ヶ月過ぎました。 なんとか保っている自分を褒めつつ、今宵も房総里見氏を夢酔流の私見を交えながら、一緒に勉強していきましょう! ◆ ◆ ◆ 前回、鶴谷八幡宮から広がった三部作。 今宵は最終回、「正木氏発祥の謎」をお送りします。 里見氏が光なら正木氏が影。それほどの緊密ぶりで房総を経営した両者ですが、歴史というのは影の部分を顧みようとはしません。里見氏にとって、正木氏は一心同体のパートナー。むしろ両者の総合商標として〈里見〉が成立すると云っても過言ではありません。 この緊密ぶりは、里見宗家滅亡まで続いていくのです。 今回は、その影を、はっきりと照らしてみましょう。 正木大膳亮通綱。安房国山之城(現在の千葉県鴨川市)城主とされますが、諸説異説もある、謎多き人物です。 里見義実が伝承に彩られた人物であるように、正木通綱も伝承に彩られた人物です。 安房正木氏の前身は、三浦氏であるという説があります。 三浦って、そう、あの三浦半島の三浦氏です。立地的に不都合はございません。江戸湾の向こうには、三浦半島があり、古来より水運交易は盛んでした。律令の時代、東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島の上総国(安房国分立は718年)に渡るルートとなっておりましたから、海上交通はその頃から当然の世界だったようです。また、鎌倉時代、武家の都である鎌倉周辺の特有墓所〈やぐら〉も、安房国に存在しています。このことから、鎌倉周辺の文化圏に含まれていたと推測がされます。 ここで律令~鎌倉までの流れを記すのは、三浦氏との関連性を探るためのもので、脈絡のない話ではございません。 三浦氏が歴史の表舞台に登場するのは、源平争乱の前夜といわれます。すなわち、八幡太郎源義家の頃、奥州の戦さ(前九年・後三年)の与力として、源氏への忠節を誓ったとされます。以来、源氏の嫡流は東国の三浦・千葉といった一族から崇拝されました。頼朝のときに忽然と鎌倉の首都構想が生まれたように思われるでしょうが、それ以前から、源氏と鎌倉は関係深かったし、その支えになっていたのは紛れもなく三浦氏でした。 保元平治の乱により、世は平家の時代となります。東国武士は表向き平家に従いますが、伊豆に流された頼朝の扶養に尽くします。そのときも、三浦氏が尽力しました。石橋山挙兵のときも、動員兵力は三浦氏がダントツでした。ただ不幸なことに、増水で酒匂川を渡河できず、頼朝は敗退したのです。それでも頼朝再起に尽力し、武家政権獲得のため、尽くしました。鎌倉幕府設立のために三浦氏は相当身を削ったことでしょう。しかし、その努力は報われず、源氏三代将軍亡きあとは、北条氏と政争し、大まかに云えば滅亡したのです。 三浦氏の血統は、傍流佐原氏に受け継がれ、鎌倉時代を生き抜き室町時代を迎えるのです。鎌倉府の対立時は上杉方に附き、やがてその分家ながらも勢力を保つ扇谷上杉氏の三家宰として、三浦半島に勢力を保ちました。三家宰とは、太田道灌のいた太田氏・小田原の要であった大森氏・そして三浦氏です。この扇谷上杉氏は、伊豆から勢力を伸ばしてきた北条早雲によって国を奪われてしまいます。ただ、早雲は実力者である太田道灌と大森氏頼が生きている間は動こうとはしませんでした。この二人が死んでから、国盗りを始めたのです。主家が没落しても三浦氏は屈することなく、やがて激闘の末、滅び去っていくのです。三浦新井城を巡る攻防戦は、早雲の生涯最後の戦さでした。 こうして滅び去った煌星のような三浦氏。滅びたのちに、ひとつの伝説が生まれます。 「安房に生き残りが逃れて、いつか北条を討つ」 これは直後か、江戸時代になってからか、定かではありません。しかし、安房の正木一族は三浦氏の末裔であると、囁かれたのです。 三浦氏から正木氏にどうつながるのか、諸説を整理しましょう。 1.明応3年(1494)の三浦氏の内紛で殺された三浦義高の遺児説 2.永正15年(1518)、北条早雲によって滅ぼされた三浦義同の子又は甥説 3.義高の養子・三浦高救(上杉からの養子)が廃嫡された後に安房に奔り、その子義時が正木姓を名乗った説 勿論、三択だけではないかも知れません。しかし、里見家の台頭と三浦半島における三浦氏滅亡の時期は一致します。また、最後の当主三浦義同が里見氏と同盟関係にあったことも間違いありません。 正木大膳亮通綱が里見家臣団の中核として浮上したのは、そんな時期のことでした。 里見義通は諱を与えて通綱を名乗らせたと伝えられます。 鶴谷八幡宮の棟札には 「副帥(関東の副将軍=古河公方の補佐役)源(里見) 義通」 に続いて 「国衙奉行平(正木) 通綱」 の署名が記されていることを、以前この場で記しました。このとき、そういう地位にいたことが垣間見えます。 もう少しあとに詳しく触れますが、義通の死後、里見氏は内紛によって主家が滅び分家が相続します。このときの大戦さを〈犬掛合戦〉といいます。とまれこの内紛のとき、宗家に訝しがられた正木通綱は殺されてしまいます。後継者は 「槍大膳」 という異名で四境に恐れられた正木時茂です。里見氏の軍師のような存在でした。弟は外房水軍の将・正木時忠。兄妹は里見氏のなかで重きを為していきました。その名跡は重く、男子なきときは里見氏から養子が送られました。 外房正木氏の正木頼忠の娘・万(養珠院)は徳川家康の側室となり、徳川頼宣(紀州徳川家)と徳川頼房(水戸徳川家)を生みました。そのため正木頼忠の子等は里見家滅亡後、それらの家臣として仕えたと云われます。頼忠の子・為春は、頼宣の守役を命じられ紀伊への入部にも随行しました。のちに姓を〈三浦〉としています。以後、代々は紀州藩(紀州徳川家)の家老を世襲し、三浦長門守家と呼ばれたそうです。 こういうことからも、正木氏=三浦氏が囁かれたという訳です。 槍大膳正木時茂。 小田喜城(後の大多喜城)を奪って居城としたことから、小田喜正木氏として根を張りました。徳川時代、関東入府した家康の家臣で徳川四天王のひとり本多忠勝がこの地にきて、名を大多喜と改め、現在に至ります。 その嫡男・正木信茂は、主君・里見義堯の娘・種姫を娶りました。『南総里見八犬伝』に登場する「伏姫」のモデルになったのは、この種姫であったと云われております。 最後の小田喜正木氏は、里見忠義の叔父で養子となった時茂です。伝説として安房に名を残す槍大膳に肖った名乗りでした。忠義を支え、倉吉改易後も御家存続に尽力しましたが、とうとう果たせなかった悲運の正木氏です。 ◆ ◆ ◆ (広告)少しだけ、まだヘルプ 夢酔の小説をベースとした劇団き楽座「萩原タケ物語」。3月に一件、依頼公演がほぼ決まったようで、これは大変有難いお話しです。小説家ではなく、舞台脚本家としての夢酔も、戸惑いつつ、万人受けしたことを安堵しております。 劇団き楽座では、今後の別演目を控えていることから、「萩原タケ物語」チームを確立するため、劇団員を募集しているとのこと。市民劇団ならではの気負いなき「き楽」を売りにしております。 興味のある方は、まず、ご一報ください。 殆ど主婦ばかりですが、老若男女は一切不問! 気楽な活動したい方、お声をください。 ☆ 劇団き楽座主催者 TEL&FAX:042-559-0470 それから。 萩原タケをもっと知りたい方。夢酔の話でよろしければ、講演、承ります。どしどしお声を掛けてください。早くもお声を頂けた団体さんの情報は、近くなりましたら公表もしくはご報告させて頂きます。 舞台のセット商品でも、ピンでも、どちらでも可です。こちらの連絡先も、劇団き楽座まで! 最近、思い出されたかのように、大人買いする方がいます。すばらしい!終わった小説がいつまでも尾を引いていく。これが、作品というものの重さなのかなと、近頃、夢酔は今更のように考えております。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.02.03 07:59:13
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