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八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 シリーズ・小田原戦役 2 豊臣秀吉が天下を確立しつつある中、唯一、公然と拒否を示した戦国大名が、小田原の北条氏です。北条氏は信長に頭を下げたのに、どうして秀吉を認めなかったのでしょう。その謎はさておいて、この戦役において、里見氏の命運も大きく左右されました。 シリーズとして、小田原陣と里見の行方を、一緒に追いかけてみましょう。 北条側は本能寺以降、家康と和睦した頃から、秀吉を意識していたと考えられます。万が一の時に備えて、支配領域15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていました。夢酔が以前執筆していた武蔵国杣保の豪族三田弾正の物語「梅の花の咲く処(西多摩新聞連載作品)」でも、資料収集過程で、このことを知りました。地方豪族に取って、徴兵は人質にもつながる合理性があったと考えられます。 また、豊臣軍の関東侵攻の展開や、その戦略を予測していたようです。小田原城の拡大修築は勿論、関東と西国をつなぐ主要な街道筋の城塞整備を行っています。主に山中城・韮山城など、箱根山方面を中心に進めました。 三田弾正ついでですが、ここに武蔵国防衛の最新拠点を、北条側は設置しています。それが、〈八王子城〉です。かの作品のクライマックス、北条に取りこまれた多摩川流域の豪族たちがこの城に配属される場面を含めております。それは、英雄譚では片づけられない、名もなき人々を描きたかったためでもありました。 八王子城。 心霊スポットとして、やたら強調される城址です。 その心霊の源は、この小田原戦役から端を発しています。 当時、北条勢の城塞技術を結晶させたといっても過言ではない八王子城。一説には、関東の安土城とさえ囁かれた、天嶮の山城です。 城主は北条氏康の三男・陸奥守氏照。 元亀2年(1571)頃より築城し、天正15年(1587)頃に完成し本拠としました。その前身にあたる滝山城主だった氏照は、小田原攻撃に向かう武田信玄に攻められ、防衛の限界を感じたことから拠点を移した、とされます。だから、八王子城築城の本来の目的は、対武田ということになります。織田信長が築城した安土城を参考に、石垣で固めた山城構築を行ったとされます。こうして、本拠を滝山城から八王子城に移したのです。 絶対の自信作である拠点、それが八王子城だったのです。 そのような自信に漲る防衛拠点が、西国との接点に構築されていたとされます。山中城・足柄城や松井田城は、街道そのものを城域とする縄張りとされました。 これに対する秀吉の戦略は、未曾有の動員力と経済力による拠点潰しと本城囲い込みという、殲滅戦に等しいものでした。結果として、小田原城を包囲し戦意を奪う策が強調されていますが、ともすれば、強大な軍事力を背景とした殲滅を目したのではあるまいかと、夢酔はつい考えてしまいます。 殲滅戦は関東東国ではあまり用いられない軍略です。 それは、西国が兵農分離に成功した職業軍人による戦いを展開したから生じた、戦いの現象だと思います。北条勢は兵農分離を完成させていません。かつて上杉謙信・武田信玄さえも籠城で退けたのは、双方ともに農閑期の戦さに縛られていたおかげです。畿内の兵にはそれが通用しません。 小田原戦役のハイライトは、長大な18万もの豊臣勢による包囲です。 北条氏政は籠城で退ける自信に溢れていたことでしょう。追いつめられたとも気づかずに……。 里見勢本隊はこの籠城包囲に参加しています。矢合わせもない、不思議な籠城戦でした。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 お問い合せ先は、こちら。 房総里見会事務長 鈴木惠弘 〒294-0027 千葉県館山市西長田72 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.25 07:33:48
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