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八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 シリーズ・小田原戦役 7 豊臣秀吉が天下を確立しつつある中、唯一、公然と拒否を示した戦国大名が、小田原の北条氏です。北条氏は信長に頭を下げたのに、どうして秀吉を認めなかったのでしょう。その謎はさておいて、この戦役において、里見氏の命運も大きく左右されました。 シリーズとして、小田原陣と里見の行方を、一緒に追いかけてみましょう。 里見家の命運を左右した件の禁制。 それって、どんなものだったのでしょう。今回はそれを垣間見たいと思います。 禁制は、記録でみる限り、3件確認することができます。 野日之村放火之跡、鎌倉御再興御為ニ候間、 当手之軍勢濫妨狼藉、堅令停止畢、 右之旨、至于違犯之輩者、可処罪科者也、仍如件、 康(龍朱印影、印文「義康」) 卯月十三日 津久井之村放火之跡、鎌倉御再興御為ニ候間、 当手之軍勢濫妨狼藉、堅令停止畢、 右旨、至于違犯之輩者、可処罪科者也、仍如件、 康(龍朱印影、印文「義康」) 卯月十三日 長沢之村放火之跡、鎌倉御再興御為ニ候間、 当手之軍勢濫妨狼藉、堅令停止畢、 右之旨、至于違犯之輩者、可処罪科者也、仍如件、 康(龍朱印影、印文「義康」) 卯月十三日 文面はほぼ同じです。異なるのは、それを発した地名だけです。日付が統一されているのも、恐らくその日か付近に三浦半島へ上陸したことを意味しています。 地名は、全部で三箇所。 野日之村、津久井之村、長沢之村とも、現在の神奈川県横須賀市にあたります。ここに里見勢が上陸し、地元民に安全を約束したのです。 その行為が、勝手な禁制=私闘と指摘され、秀吉の禁じた〈惣無事令〉違反とされたわけです。上総国没収の理由はそれだけではありませんが、少なくとも、要因のひとつにされてしまったのです。 また、小弓公方家の庇護者である里見家は、この小田原出兵の祈念として、公方回復を望んだとされる文書が残されています。 御兼約之小尻透并実盛之御剣、 此度必高木左衛門尉ニ可被越下候、 先日被仰出候小弓御本意之儀、 涯分可奉馳走候、 為其以一札申上候、 此旨可令披露給候、 恐々謹言、 庚 卯月十八日 義康(花押) 佐野大炊頭殿 これも、秀吉の天下統一ビジョンにないことで、やはり理由のひとつとされたと考えられます。 生真面目さゆえの墓穴、といったら、義康に失礼でしょうか。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.10.30 07:08:11
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