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八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。 太閤検地 誰もが教科書で聞いたことのある単語がある筈です。 えっ、ない?いやいや、そんなことないでしょう。〈太閤検地〉、聞いたことありませんか?ほら、思い出した! 太閤検地は天下統一後の秀吉による土地掌握術。しかし、昔のことながら、あながち馬鹿にできない正確さもあって、現代の測量にも通じている部分があるんですよ。 里見義康領とされた安房国で太閤検地が実施されたのは、慶長2年(1597)のこと。これにより、安房の石高は9万1千石に高直しされています。 秀吉は、各地を征服するごとに検地を行い、征服地の状況を確実に把握するため、全国的な規模で統一された方法で検地を行いました。中世以来の荘園制度を完全に破壊し、度量衡を統一することで土地制度を一新したのです。 もっとも関白位を豊臣秀次に譲るまで、秀吉は太閤ではありません。 関白の秀吉が行った検地でしたが、それも含めて今日では〈太閤検地〉というようです。これを企画発案したのは石田三成だそうで、検地奉行として事実上の施行者となりました。関東の検地実行者として、三成をはじめ多くの奉行が訪れたのです。安房を担当したのが、増田長盛です。 慶長2年、増田長盛が奉行となり安房での検地総指揮を行いました。長盛は篠原金助・北村権右衛門などの検地役人を伴っていました。この年9月から11月上旬にかけて、安房国内222か村で各村ごとに田・畑・屋敷の面積の計測を行い、それぞれの土地の生産力の基準を決めていったのです。 この奉行連が検地を代行することは、大きな意味がありました。 厭なことを領主に代わって泥をかぶるという美辞麗句。その背景にある、その国の財政事情の掌握。この二面は大きな意味を持っています。代行することで恩を売られ、国主たちは奉行たちに頭が上がらなくなった筈です。これが、引いては秀吉を中心とした中央集権に取り込まれることにつながるのです。 この結果、安房国は約9万1100石の生産力とされたのです。これをして、里見氏が軍役を負担する際には、検地の内容を以て物差しとされました。首根っこを押さえられているから、ケチることも出来ません。 これが検地の真髄でした。 検地ののち、里見家臣等は新たに計算された石高に基づく知行地の割振りを受けることになりました。義康は全面的な知行替えを敢行したことになります。この検地が里見家臣団にとって、大きな影響を与えたのは、無論、申すまでもありません。 ◆ ◆ ◆ 戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」 皆さまの温かいご声援をお願いします。 大河の署名用紙「Yahoo! ボックス」にUP! ぜひダウンロードしてください。 https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-3cwv2wfiuh32cvdru3iad3wwoe-1001&uniqid=a82d0f16-38fb-4e71-a93a-d67a27a62932&viewtype=detail 房総里見会事務長 鈴木惠弘 〒294-0027 千葉県館山市西長田72 署名用紙の欄外に 「夢酔に頼まれた!」 と添え書きくだされば幸いです。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.12.23 16:10:46
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