北京オリンピック、ついにアジア3番目の都市として期待を込め昨日8日に開催されました。
国際的に非難GOGOのチベットやウイグル地区独立問題、国内のテロ・暴動・騒乱処理、人権侵害、過剰警備、報道や応援規制、主権侵害の聖火リレー、観戦ツアー売れ残り、偽装・コピー天国、公害垂れ流し、資源・食料の買占め・囲い込み、一寸数えただけでも何かと抱えている内憂外患、これ等を乗り越え各国首脳が勢揃い、世界が注目するオリンピックのスタートです。
それにしても自国の歴史や伝統を世界に鼓舞するオープニング、演技人数の多さに感心です。
2016年開催の夏季オリンピックに向け東京は一次予選をトップ通過で期待が膨らみますが、そのためにも中国は人種・宗教・思想・信条など違う相手や国家への公正・公正な応援と審判、勝者に対する国歌・国旗への礼儀・礼節を守ってもらいたいですね。愛国主義で自国だけ応援されたのでは他国は戸惑うだけ、何故なら一流国家への仲間入りが試される大会になるからです。
今回は中国の成功と日本の活躍を期待し、オリンピックにまつわる私のエピソードご案内です。
アジア最初の夏季第18回東京オリンピックは昭和39年10月10日に開催、快晴、この時代は『三丁目の夕日』真っ只中にあり、新幹線が開業し、高速道路が造られ、三種の神器(冷蔵庫・テレビ・洗濯機)が持てはやされ、トリスバーでウイスキーを知り、王・長島・野村選手達の活躍でプロ野球に熱くなり、石原裕次郎・三船敏郎・吉永小百合達の映画で沸き、デパートは物珍しさで輝いていたという、夢や希望に躍動していた日本の時代感があった頃です。
この大会で東洋の魔女女子バレーボールを筆頭に、日本は体操・柔道・重量上げ・レスリングなどで金16・銀5・銅8個という大活躍、国民を大いに勇気付けてくれた大会のように思います。
この時の私の思い出は初めて飛行機に搭乗、出来たばかりの新幹線や東京モノレール乗車、そして男子マラソンを沿道から応援したこと。(靴を履いたアベベ優勝、惜しくも円谷幸吉は銅)
一番身震いしたのは開会式の模様をカラーTVで見たこと、昭和35年にカラー本格放送が開始されましたが、受像機は当時40万円前後と高値の華。勤務のM電機は6インチの覗き窓カラーTVだけなので、当日は仕事をほっぽり出し早くから友人のT社に出向き階段椅子席にへばり付き、19インチカラーTVの映像に見入りました。当然、街中は人・車の往来が無いガラガラ状態です。
このオリンピックは所得倍増計画を後押し、後年の日本列島改造や3C(カラーTV、カー、クーラ)などを予兆させる、国中を一つに盛り上げ奮い立たせたイベントのように思います。
市川崑監督の東京オリンピック記録映画、小関祐而作曲のオリンピックマーチ、昭和天皇に向かい敬意と開会宣言、エチオピアのアベベ旗手、胸に熱いものが込上げ涙が出て来そうです。
東京明治神宮外苑、ここにかっての日本水泳界の聖地『神宮プール』がありました。
戦後も国民の期待を背負い、古橋広之進・橋詰四郎・山中毅などが活躍したプールです。
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| 華々しい第18回東京オリンピック、しかしその24年前には幻となる第12回東京オリンピックが予定されていました。その前回の第11回ベルリンオリンピック国内予選、当時、19歳の父は平泳ぎ決勝で惜敗、『前畑頑張れ(女子200m平泳ぎ金)』の実況や陸上棒高跳びで西田修平と大江季雄の銀・銅メダルを半分に割った『友情のメダル』が話題になった大会ですが、大学時代に同じ釜の飯を食った同世代で主将になる葉室鉄男氏(福岡出身 200m平泳ぎ金)も活躍したことから、胸中は複雑だったろうと推察しています。そして次の東京オリンピックにと満を持しますが、抜き差しならない日中戦争や日米関係の悪化から返上・中止の憂き目に、幻となってしまう第12回東京オリンピック、幻のオリンピック選手になってしまった父、代わりに日独伊三国対抗水上競技大会でお茶を濁され、現国体の宮城県選出水泳競技者第一号の栄誉を得ても、オリンピックに出場して活躍したかっただろうと無念さを理解しています。
以降、兵役に出向き財閥系銀行を66歳で退職まで、一度も泳ぐことが無かったのが証です。
でも健康維持からか退職後に再度泳ぎを開始、どこに体力が温存されていたのか国内での平泳ぎの新記録連発、世界マスターズスイマーとして最高の栄誉であるワッペンを4年も授与される(各年毎の、5才刻みで年齢別・競泳別の記録比較で世界10傑者が対象。最後は81歳の時になりました)という、それまでの鬱憤を晴らすかのような晩年の大活躍振りに拍手喝采です。
24年前(昭和59年)の第23回ロスアンゼルスオリンピック閉幕式当日、私達は前日から岳父70歳の案内で、北アルブスの燕岳(2,763m)に家族14人のパーティーで登っていました。
岳父自身の体力と孫達の成長とを見計らい、家族旗も作って1年以上前からの計画実行です。
ところが就寝後に岳父は急に心臓の不調を訴え、山荘待機の順天堂大学医学生の応急治療を受けて、翌朝ヘリコプターを呼び緊急下山させ、九死に一生を得るという事件がありました。
気圧が低く空気が薄かったことが引き金になり、山登りには日頃の健康・体力管理と危機管理上の持病対策が必要なことを痛感した、ロスアンゼルスオリンピック閉幕日の思い出です。
皆様にはそれぞれのオリンピックを振り返る、今回それを思い出す機会になると良いですね。
次回はDIC(旧大日本インキ化学工業)の川村記念美術館(千葉県佐倉市)を予定しています。 |
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最終更新日
2008.08.09 06:56:38
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