福島県会津地方は東北第一の都市の時があって、統治者は一年余と短かった独眼流伊達政宗、次いで豊臣秀吉が会津訪問の際に家臣蒲生氏郷(92万石)が拝領、その次が上杉家二代目景勝(120万石)が越後から会津入り、そして伊予松本城を築いた加藤嘉明(40万石)が移封して来て居城に、幕末には三代将軍家光の血を引く松平容保(23万石)が京都守護職になり、新撰組の組織、戊辰戦争、白虎隊の自刃や鶴ヶ城の悲劇、明治期には藩士が下北半島に移封(斗南藩)されるという地獄の苦難がありました。また、秀吉の叱責から千利休切腹で、その子息を匿い千家の三家茶道を後年開花させるという、歴史に残る話題豊富な地域になります。
新政府軍を率い会津を攻め百円札肖像の長女が、家内の本家筋に嫁いでいた縁もあります。
が、今回はそれらを次に譲り、江戸との人や物資往来に利用された『大内宿』のご案内です。
![大内宿](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000338409/43/img2713fd47zikbzj.jpeg)
会津から日光・今市を抜けて、江戸に向かう会津西街道(別名、下野街道or南山通り)。
かって旅人達が往来した街道には、古き良き会津の風情や情緒が息づいています。
![大内宿入場券](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000338409/44/img6e4d0253zik8zj.jpeg) |
| 会津若松市から南に車で約1時間、峠筋のこんな山懐に抱かれた所に大内宿はあります。
会津藩が江戸時代初期に、江戸と結ぶ幹線道路の一つとして整備し、参勤交代や数千俵にも及ぶ江戸廻米とかの物資を運んだ、重要な街道であり宿場町として栄えました。
それ以前にも戦国武将の伊達政宗が峠を越え、豊臣秀吉も会津からの帰り道に通っています。
幕末時には幕軍と官軍に別れ、藩同士が犬猿の間柄になった長州藩吉田松陰も通っています。
こんな重要な大内宿になりますが、旧街道に沿った南北500m、東西100mの範囲で現在は保存され、国指定の重要伝統的建造物群保存地になっています。(車両は進入禁止です)
町並みの特徴は寄棟造りの茅葺建物、40棟余りが道路と直角に整然と並んでいることです。
現在の主屋の多くは江戸後期から明治にかけての建造物で、道路から空地を取って、しかも敷地北側に寄せて建て、南側を通路として空ける配置をしています。そして倉や納屋は道路から隔てた主屋の奥に建てる、雪国の生活の知恵とか工夫が感じられ、歴史的な景観を伝承しています。
当初、用水路は道路の中央に設けられていましたが、会津戦争で役割の終えた宿場は明治19年に、官の命により道路両側に側溝を掘り洗い場を設けるなどの変遷がありました。
道端側溝にかがんで食器を洗うお嬢さん?、冷たいですが澄んで綺麗な清水には感心です。
観光化しているとはいえ大内宿はまだまだ素朴、ご覧の通り夫婦や家族で店を構えています。
中山道馬篭や妻籠などのように、全国に宿場町が整然と残っているのは少ないですが、大内宿の純朴さ素朴さに敵う所は無いように思い、これが飾れない東北人らしさかと気に入りました。
観光地の多くは出所不明品の氾濫、でもここは郷土の品々が満載で期待を裏切りません。
会津もめんや和紙の郷土細工品、米処だけに地酒や草餅・豆餅・しんごろう餅・栃餅などや米菓類、土地ならではの漬物や味噌、野菜等など、各店が工夫を凝らした品揃えは豊富です。
蕎麦の名所でもありますし、山葡萄やざくろの新鮮ジュースも飲ませてくれます。当然、宿場ですから宿屋もありますし、偶然、品ある酒店の若女将は雪国美人だなと後ろ髪引かれ・・・たりと!
次回は千葉県我孫子市で開催の、ジャパン・バード・フェスティバル2008を予定しています。 |
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最終更新日
2008.10.24 06:31:26
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