全国有数の檜の産地『木曾』、ここに江戸日本橋と京都三条大橋を結ぶ中山道がありました。
江戸を出発して、京都の一歩手前の草津宿で東海道と合流(滋賀県 東海道で52番目、中山道で68番目の宿場)、京へ向かう街道になります。その中山道も長野県から岐阜県に架けての街道を木曽路(11宿)と云い、今回は木曽路隣同士の馬籠宿と妻籠宿についてご案内です。
それにしても1.5ヶ月程前にご案内した、会津大内宿との大いなる違いを感じさせられます。
馬籠宿 |
| 中山道は江戸時代に入り整備された5街道の一つ、129里に69宿場があり、馬籠宿は江戸から43番目、木曽路として最南端の美濃国境11番目の宿場町になります。標高620mの急な山の尾根に位置し、全国でも珍しい坂に開けた難所の宿場で、隣の妻籠宿へは800mの峠越えになります。そもそも中山道は山間街道で、東海道のように増水による川止めが少ない利点から、東海道より40kmも長いのに利用は多かったようです。一説では姫街道とも呼ばれ、女性の利用が多く、幕末の公武合体で和宮が徳川家へ降嫁した時にも利用されています。
ついでながら中山道に添う中央自動車道、アップ・ダウンとくねくね道、そこをトラックの猛スピード走行、特に夜間はライトに目が眩み恐怖・危険を覚えての疾走になり要注意の道路です。
ご当地出身の島崎藤村『夜明け前』の舞台にもなった馬籠宿、写真でお分かりのように尾根道の坂道だらけで、この地形から吹き上げる風が常に強く、しかも水利が悪いために、特に明治28年と大正4年の大火で、ことごとく江戸時代の民家は焼失してしまったようです。
町興しの一環でしょうか郵便配達夫の衣装に注目、記念撮影にも気さくに付き合ってくれました。
商家軒先で一休み、お酒木曾のかけはしの看板で野趣ある『杣酒』との出会い、今年は関東信越国税局や長野県知事の酒類鑑評会で優秀賞とかで、正月用に5本も奮発してしまいました。
藤村記念館 |
| 明治5年、馬籠宿の本陣・問屋・庄屋の3役を兼ねた旧家生まれの島崎藤村、その本陣跡地に藤村を慕う村の青壮年により、藤村記念館は建てられています。生まれた頃から家運は傾きかけて、不運にも明治28年の大火で建物はほとんどが焼失してしまいます。唯一残ったのが祖父母の隠居所で、少年時代の藤村はこの二階で父親から四書五経の素読を受けていたようです。
破壊で女優デビューの藤村志保、NHK朝ドラ『だんだん』で好演、余話ながら松江も良い所です。
島崎藤村と言えば作家というより、初期の詩人というイメージが私にはあります。
その証拠に長野県小諸市にある懐古園、眼下に流れる千曲川を歌った『千曲川旅情のうた』が印象に残り、童謡の椰子の実も思い出されます。と同時に教え子の佐藤輔子との『初恋』が、最初の詩集になる若菜集に収められ、記念館には輔子の日記や写真が展示されてもいます。
庭先の詩碑には、片思いだった彼女への情熱を色濃く残した初恋の詩が刻まれています。
『まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思いけり』
妻籠宿 |
| 宿場町も明治になると、鉄道や道路の発達で機能を失い衰退の一途です。中山道と伊那道が交差する妻籠宿(江戸から42番目の宿場)も例外では無く、太平洋戦争後に全国に先駆けて町並み保存運動が始まり、『売らない・貸さない・壊さない』の三原則で江戸町並みを保存したために、現在では国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
幕府によって宿駅が制定されると、本陣に島崎家(島崎藤村の母親の実家)が任命され、庄屋も兼ねながら明治まで続くことになります。宿場は幕府にとって防塞施設にもなり、敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた枡形の跡も残ります。土地柄か木工製品の土産が目立ちました。
次回は有田焼きの流れを汲む、愛媛県砥部町のずっくり重い砥部焼きを予定しています。 |
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最終更新日
2008.12.06 07:15:55
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