思い出の街・・・長崎、今までに「ランタンフェスティバル」と「おくんち」をご案内して来ました。
今回は歴史の宝庫になる市内繁華街の丸山に店開く、史跡料亭「花月」を中心にご案内です。
司馬遼太郎の小説「龍馬が行く」で描く丸山「花月」とは、坂本龍馬達が薩摩藩や長崎の豪商(小曽根家)の援助を受け亀山社中(浪人・貿易結社。龍馬が脱藩を許された後は海援隊)を立ち上げ、その社交場として描写され龍馬刀傷も残る憧れの料亭になります。
繁華街に繰り出す前に、神聖な気持ちで稲佐山(東京タワーと同じ333m、日中でも市内や湾内の一望は百景です)から日本三大夜景の見学です。ナポリや香港と並ぶ世界三大夜景と名乗る函館(函館山)、そして神戸(六甲山)、長崎だって引けを取りません。、薄暮から展望台で待っていると市街地あちこちからポッ、ポッ・・・ポッと灯りが・・・暖か気持ちにさせてくれる情景です。
長崎は4百数十年前から鎖国時代を通じて、オランダと唐に門戸を開き交易を行っていた土地柄、明治の開港以来、常に異国情緒と歴史がたっぷり香る街になります。市街地は海と山に囲まれた平地の少ない地形だけに、交通手段は市電活用(100円均一運賃、乗換え自由)が一番便利、本数が多く四方八方に路線が組まれ乗換え自由ですから市民の足になっています。
![長崎ぶらぶら節の「愛八と古賀先生」](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000338409/31/imgcb815b99zikazj.jpeg)
長崎ぶらぶら節
長崎名物 はた揚げ 盆祭り 秋はお諏訪のシャギリで
氏子がぶうらぶら ぶらりぶらりと 云うたもんだいちゅう |
| なかにし礼が直木賞を受賞した小説「長崎ぶらぶら節」、実在した長崎丸山遊郭の芸者愛八が、網場町から売られて来た少女時から亡くなるまでの半世紀を描いた物語。郷土史家の古賀十二郎先生と巡り会い密かに慕い、長崎に伝わる歌を一緒に探し続け、民謡「長崎ぶらぶら節」に出会い、西条八十のプロデュースでレコード化して全国ヒットするという芸者一代記になります。
偶然ですが歌を発掘した場所は・・・温泉地小浜、米国大統領オバマの登場で人気沸騰です。
吉永小百合と渡哲也の共演で映画化され、芸者置屋の撮影現場はもっぱら花月になります。
網場町からあどけなさが残る10才の少女(後の愛八)が、親に背負われ峠を越え蛍茶屋で一休み、ここが別れになる切無い出だしシーンが思い出されて来ます。
長崎の遊郭丸山は、江戸の吉原、京都の島原と共に日本三大花街、「江戸の気風に京都の器量、長崎の衣装で3拍子揃う」といわれるほど栄えたようです。寛永19(1642)年に市内に散在していた遊女屋を、丸山町と寄合町の一画(通称 丸山)に集められたのが発祥とされ、最盛期には芸者屋が約100軒、芸妓は1500人近く、男達の天国? の賑わいだったようです。
売春防止法の公布により、丸山遊郭は316年続いた歴史に終止符を打つことになります。
歌にも歌われる「思案橋」は銅座・丸山への入口、花街へ行こうか戻ろうか思案したことからの命名だそうで、そこから更に先に進むと今度は「思い切り橋(翌朝は見返り橋に)」があり、勇気を奮って? 一目散に花街へ飛びます。思案橋の傍には死者・行方不明者262名も出した長崎集中豪雨(昭和57年)の碑があり、この付近が水位1.57mにもなったとはビックリ。思い切り橋付近にはカステラの福砂屋本店があり、出張帰りは土産を買って帰った思い出の店になります。
「花月」の元は遊女屋の引田屋になります。丸山一帯に遊女屋が集められた時が引田屋の創業、家運隆盛と共に敷地を広げ家屋を新築し、庭園内に茶屋として花月が造られます。その後引田屋は大正末に廃業しますが、花月の名称と庭園や建物は現在まで伝承されています。
幕末時は坂本龍馬など志士達の社交場であり、シーボルトにもまつわる歴史が残る所、昭和35年には珍しい県指定「史跡料亭」になり、だから一寸気後れして入り難い格式の店になります。
![花月大広間](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000338409/52/img5abb1aafzik8zj.jpeg)
大広間、舞台での舞いを見やりながらの卓袱料理、魚不得手の小生には・・・?
酔って切り付けた坂本龍馬の刀傷は、この部屋の床柱にあります。
![しっぽく料理](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000338409/54/imgf69a0ec7zik0zj.jpeg) |
| 花月の玄関には、往時の遊郭丸山を偲ぶ木版「丸山郎中之風景」が掲示されています。
夕時、庭園を眺めながらの卓袱料理は、女将の「御鰭(おひれ)をどうぞ」の言葉から始まります。鯛の胸鰭が入ったお吸い物で、乾杯も挨拶も御鰭を食べ終わってからになります。九州の会食は総じてお吸い物から始まるようで、それは空きっ腹にお酒は不養生との配慮があるようです。
鎖国時代に唯一門戸を開いた長崎、オランダや唐の料理を巧みに取り入れ和風アレンジしたのが卓袱料理で、今では皿うどんやちゃんぽんのようにしっかり郷土料理として定着しています。
ドイツ人のシーボルトは、1823年にオランダ人と偽り27才で来日しています。
内科・外科・産科の博士号取得の大学卒、日本に近代医学を持込み沢山の弟子を育てた功労者で、事件で追放される7年の間に江戸参府もしています。長崎奉行の計らいで出島を出て日本人患者を治療、その実績から全国から優秀な門弟が集まりますし、お滝さんとの出逢いと結婚がありました。花月には、シーボルトとお滝さんの部屋が残されていますが、お滝さんは引田屋遊女(其扇)だったとか、遊女名を借り出島に出入りしていただけとの説がありハッキリしていません。
ここ長崎の遊郭が他と違うのは、出島から出られない異人さんのために芸者の方から出向き出入りが許可されていたこと、シーボルトとお滝さんの逢引きにはそんな背景がありました。
追放後にお互いに再婚しますが30年後に再会、劇的な涙、涙がありました。生まれた娘はイネ、孫がたか、特にイネは日本初の女医(医師制度創設で助産婦になる)として万丈の人生を送ることになりますが、決して幸せな生涯では無かったようそれは割愛です。
次回は宮城県塩釜市の奥州一ノ宮、小生が青春を過ごした塩釜神社を予定しています。 |
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最終更新日
2009.03.28 07:01:54
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