20080309
彼女は 一旦おしゃべりをやめ皿を下げに来た若いウエイトレスにごちそうさま と軽く頭を下げる膝の上に広げた白いハンカチをたたみ食後のコーヒーをひとくち飲んでから 再び口を開くえぇ そうなの別の仕事もしてるんです学費の心配は終わりましたけどまだ お嫁入りの支度とかありますし・笑でもうち わたししかいないから…あ 稼ぎ手のことね・笑御存知ありませんでしたっけ?うちね 母子家庭なんです・笑えぇ 事故で突然・笑それがね笑っちゃうんですよ娘が1歳になったばかりのとき・笑そうなんです 人妻になるのは遅かったんですけど未亡人になるのは早かったんです・笑うふふ 悲惨でしょう?笑え?そんなことないですよぉ・笑泣いている暇なんかなかっただけです・笑笑いながらそう言うと 視線を落とし焦茶色の液体が入ったカップを 再び口に運ぶその細い指には 目尻同様たくさんの年輪が刻まれている無造作に後ろで束ねただけの髪には たくさんの白いものがまじり肌はおろか 目元にも口元にも 化粧の気配すら感じられないけれど いたずらっ子のように首をすくめて笑うその姿はまるで恥じらいを帯びた少女のように愛らしいやっと母親役が終わったと思ったときにはすっかりおばあさんになっていたわ・笑彼女は 微笑みながら 静かにそう呟きその視線を コーヒーカップから窓の外へと移すその身を包む淡いグレーのアンサンブルはまるで身体の一部であるかのように馴染んでいる淡いグレーは質素な彼女によく似合う…そんな感想を心に抱いた その時だった突然 記憶の扉が開き その事実を目の当たりにした私は愕然とするそういえば 決して美人とは言えない彼女が身につけているのはいつも決まってモノトーンの服だった…いったい私は 今まで彼女の何を見てきたのだろう髪の先から爪の先まで 色彩を持たない女…色のない世界にひとりで生きてきた女…無彩色の女に降り注ぐ冬の午後の光…窓の外を眺めていた彼女はふと我に返ると束の間の沈黙を埋め合わせるかのようにいつものようにおしゃべりを始めるいつものように一方的に話をしながらいつものように軽く握った手を口元にあていつものように時折首をすくめてクスリと笑ういつものようにぼんやりと聞き流している私に気付くと聞いてるんですか? と笑いながら怒るのもいつもと同じだ淡いオレンジ色をまとった窓際の彼女は美しく「 もう一度 恋をしてみませんか 」 そのひと言が 口をついて出てしまいそうになるのを私は 必死で抑えていた