カテゴリ:本・読書
一昨日、図書館で『チベット語になった「坊っちゃん」』という本を借りた。
ほとんど通り過ぎるだけで借りることのない棚に、その本はあった。 すでに7~8冊の本を抱えて、もう帰ろうとしていた時に題名が目に止まったのである。 開いてみると、序章に「拝啓、さだまさし様」という見出しが目に飛び込んで来て驚いた。 「なんだこれは! 何が書いてあるんだ」と思い、とにかく借りようと持ち帰ってきたわけである。 それでも他の本の方を早く読みたい衝動にかれれていたので、おそらくこの本は後回しになるものと思いながら、机の上に重ねておいた。 まずコーヒーを入れ一息ついて、おもむろに一番上の本を手にし開いてみたら、どんどん文章に引き込まれ止まらなくなってしまい、後回しどころか一気に読み終えてしまったのである。 実は普通の本よりも漢字が多いことに気付く。そして内容が濃い。 読み終えた後、これはブログで紹介しなければならない本だと思った。 チベットと言えば、ダライ・ラマの逃亡や中国支配によるチベット人の大量虐殺や人権侵害が有名で、私もおおざっぱにしか理解していなかった。中国人の侵略が進んでいるという大きな問題があることを知っていた程度だった。 著者は、たまたま台湾人留学生のお世話を頼まれたことで、日本の仏教や文化について語り合ううちに、やがてチベット仏教の研究をするようになり留学することになる。 20世紀末に中国・青海省チャプチャの青海民族師範専科学校に留学した著者は、またまたひょんなことから学生から日本語を教える先生になってしまう。 彼はチベット語を勉強しているうちに、日本語との共通性を見つける。 チベット語にも「てにをは」があるという。チベット語と日本語は兄弟関係にあるという。 日本語に「あいうえお」の五十音があるように、チベットは三十音でできていて、一見すると何の関係もない文字列にしか思えないが、たった一時間の授業で二つの言葉が兄弟姉妹だと理解するそうだ。 しかも英語や中国語にはない「てにをは」をつけるのも同じなので、チベット語がわかれば日本語の文法がわかる仕組みになっているそうだ。 よって、生徒たちの飲み込みが早く、平仮名もカタカナも簡単にマスターしてしまった。 生徒たちはチベット語の他に中国語で教育されているため、漢字の読み書きもできる。 チベットというのは仏教の国なので、文字を大切に扱い丁寧に書く文化があるそうだ。 これなども日本と似ているところで、皆がとても丁寧に平仮名カタカナを練習していたそうだ。 常に漢人(中国人)から野蛮人とか下等民族などとさげすまれ、しいたげられてきたため、生徒たちは自分たちに自信を持てずに生きているというのが現実だという。 でもチベット人というのは素晴らしい民族で、1400年前にインドに留学した若者がチベット文字を考案し文法書も書きあげている。「てにをは」のないインドの文法学を手本にして作りあげられたものだそうだ。 しかも文字を創り文法理論を整備した人の名を、チベット人は誰もが知っているというのだ。 チベットはサンスクリットの経典をすべてチベット語に翻訳している。 唐からの漢訳経典もすべてチベット語に翻訳している。 1400年前というのは、日本では大化の改新の頃で、日本には文字がなく中国からの借り物の漢字を使っていたわけで、平仮名や片仮名を誰が考案したかなど誰も知らないではないか。 日本では、お経をまったく日本語に翻訳しなかったという不思議がある。 これは昔から疑問だった。仏教国日本と言われながら、有難味がわからないし馴染みがない。 そんな優秀なチベット人の歴史があり、地下には多くの資源が眠っている土地である。 だからそれを中国が独占しようとしてるわけだが。 さて、平仮名片仮名が書けるようになると、空海が和歌にした仏教文化や『平家物語』や『草枕』の冒頭などを書く練習をさせる。 う~ん、最初から高度ですねぇ。 そして三カ月もすると、CDでさだまさしの『防人の詩』を聞かせながら筆記させていたのだ。しかも翻訳しながら。 あの歌を翻訳するのは難しいと思うのですが、チベット人はちゃんと理解できるようです。 欧米人や中国人には無理なんじゃないかな。 著者は、学校に誰が送ったのか知らない多くの日本の本が段ボールに入って手つかずのまま保管されているのを見つける。 その中から夏目漱石の『坊っちゃん』を生徒たちに翻訳させようと試みる。 無鉄砲な坊っちゃんの行動に爆笑しながら、辞書を引き引き協力しながら訳し続ける彼らのいきいきした姿が目に浮かぶように描かれている。 先生と生徒の一生懸命さがひしひしと伝わってくる場面だ。 それにしても半年やそこらで翻訳してしまうとは凄いものだ。 翻訳は順調に進むが、チベットは民族教育の名前のもと漢族への同化を進められているため、チベット語の学習を声高に叫ぷことは危険なことで、お世話になっている人々に万が一でも迷惑がかからないように、十分に注意を払わなくてはいけなかった。 全力で教える先生と生徒たちに、やがて1年契約という別れが近づき、惜しまれながら帰国する。 副題として「草原に播かれた日本語の種」と書かれている。この種がいつか開花することを願うばかりだ。 是非、みんなに読んでいただきたい本です。 チベット語だけでなく、日本語の危機も危惧する著者のあとがきも身にしみました。 あれから10年以上の年月が過ぎ、チベットの状況は悪化の一途をたどっているのが悲しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.02.25 11:13:23
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