青山学院の法学部教授が語る、「カルト」と「健全な宗教」の違い。
既出かと思いますが、私は書類上はキリスト教(カトリック)の信者です。小学校時代から毎週日曜日には家族でカトリック教会のミサに出席していました。 しかし、中学・高校時代の私は信仰心が非常に乏しい人間でした。「所詮、神様なんていないよ」というのが当時の私の認識でした。この点では、普段は仲の悪い弟と珍しく意見が一致したものでした。いつ頃だったか、とある町のカトリック教会に礼拝へ連れていかれた時のことです。私は弟とともに「俺たち、無宗教だよ!所詮、神様なんていないし」と親に対して意見したのでした。そうしたらどうなったか。 母「無宗教、無宗教というけど、それどういうことか分かる!?『自分は無宗教だ』だとか『自分は無神論者だ』という人は、危険な思想を持ってるヤツだと思われるよ!!」 高校生当時の私は、全くピンときませんでした。 後年、ネットで調べてみたところ、海外で無神論者は、「神をおそれない傲慢な人」「不遜な考えを持つ人」というふうに受け止められるそうです。 (AERA.dot, 2022年8月27日配信。「日本では違和感ない「無宗教です」の言葉も海外では危険 元大使が経験した“凍りついた”現場」) ある日本人は、ドイツで「自分は無宗教です」と紹介したところ、「あなたの頭の中は空っぽなの?人間は宗教心無しでは信念は生まれず、生きていけないはずだ」と不気味がられたそうです。 また、ある日本人がサウジアラビアに入国しようとした時のこと。 海外で「私は無宗教です」はNGの理由 入国審査カードで「宗教」のところに「NONE(無宗教)」と書いて提出したところ、別室に連れていかれて即日、強制送還されたそうです。イスラム教やキリスト教を信じている人が多い国では、天地創造の神を信じている人が多いです。そんな人から見ると、何の宗教も信じない、神をも信じぬ者は、どんな秩序も認めない、恐ろしい者、テロリストと同じように思われる訳です。 要するに、相手からすると「無宗教の人」は、「世間一般の世界観や道徳観を一切認めない。俺が世界で一番だ!」という危険なヤツか、「自分自身のことについて何も考えてこなかった」という中身が空っぽなヤツか、のどちらかだと思われるわけです。いずれにしてもマイナスの方にしか作用しませんね。 私が小学生だった時、カルト宗教に関するニュースが多く出ました。特に多かったのはオウム真理教。その後、法の華三法行、パナウェーブ研究所、という怪しい宗教団体に関するニュースがいくつか出てきました。私は現在でも、創価学会、幸福の科学、統一教会といった新興宗教に対しては不信感しかありません。 社会人になって、観光として全国各地の教会を訪問したり、写真を見たりすることがあります。ああ、大田区の田園調布カトリック教会や、長崎の浦上天主堂は美しかったなぁ。今更ながら自分が(書類上だけであれ)カトリック信者であり続けたことは、正しかったと思っています。 では、カルト宗教と、健全な宗教(キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教など)の違いはどこにあるのか?青山学院大学法学部の塩谷直也教授が雑誌の取材で見解を述べていました。 青山学院大の宗教部長が語る「カルト」と「健全な宗教」の違いとは(15日、AERA) 安倍晋三元首相の銃撃死亡事件で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に焦点が当たり、再び「カルト宗教」が注目を集めている。「信教の自由」が認められているこの日本で、健全な宗教とカルトと呼ばれる宗教や危険な宗教との違いはどこにあるのか。キリスト教の牧師を経て、現在は青山学院大で宗教部長を務める塩谷直也さん(法学部教授)に見解を聞いた。* * *――日本国憲法の19、20条では「思想・良心の自由」「信教の自由」が保証されています。塩谷さん:「イワシの頭も信心から」ということわざがあります。信仰心が深いと、どのようなものでも尊く思えてしまうという意味ですね。同じように、信じる対象が非合理であっても、それ自体になんら問題はありません。――その自由がある中で、健全な宗教と危険な宗教との違いはどこにあるのでしょうか。青山学院大は、ホームページで旧統一教会などを名指しして勧誘被害にあわないように注意喚起しています。塩谷さん:明らかな人権侵害をしているかどうか、だと考えます。最も分かりやすいのが「結婚の自由」の侵害でしょう。旧統一教会の合同結婚式など、その最たる例と言えます。また、正体を隠しての勧誘もそうです。宗教だと名乗らず、サークルやボランティア、今注目されているSDGsなど、入り口を魅力的に偽装して、興味を持って入ってきたターゲットと人間関係を作り上げていく。輪の中に入り込み、もう引くことができないという状況を作ってから宗教色を出し始め、取り込んでいきます。このやり方は明らかな自己決定権の侵害に当たり、詐欺と同じ行為です。――AERA dot.の取材でも、いわゆる「カルト宗教」がSDGsやボランティア、サークルなどに偽装して勧誘する手口が明らかになっています。ただ、一般的にはカルトとされていない大きな宗教団体の信者にも、素性を名乗らずに勧誘している人はいます。塩谷さん:正体隠しの勧誘は、あってはなりません。健全な団体なら、最初に何者かを名乗りますよね。宗教に限らず、当たり前のコミュニケーションのあり方です。現代における宗教は、きっちり名乗ったうえで、勧誘したとしても相手の選択権を尊重し、さらに入退会を自由にする。そうした透明性が大切だと思います。もちろん、例えば友人に、「ちょっと話を聞いてよ」などと言って、後から自分の信仰について話す信者がいる可能性は否定できません。ただ、相手の選択権は奪ってはいけない。嫌だ、興味がない、とはっきり言える権利は守る。それが健全な宗教のあり方です。 ――危険な宗教の特徴として「マインドコントロール」が指摘されていますが、神を信じることとマインドコントロールは何が違うのでしょうか。塩谷さん:健全な宗教は、その人の考える力を奪いません。むしろ、その力を与え、考えることを放棄させないのです。逆に、マインドコントロールなどによって考える力を奪うのが危険な宗教のやり口です。ここはまったく違います。キリスト教で言えば、健全なキリスト教は「聖書の神様はこう言っているけど、あなたはどう思いますか?」という問いかけがあります。神と対話し続ける、いわば「悩む力を与える」のです。 一方、危険な宗教団体はどうですか。抱えている悩みや苦しみに対し、ご先祖の問題が今のあなたに影響を与えているなど根拠のない答えを示したり、世界の終わりがやってくると明言し、恐怖心でその人の心を支配しますよね。閉ざされた世界を作り、そこには「カリスマ」が必ずいて、「正しいことをしているのに迫害されている」などとありもしない話で被害者意識を作り上げる。そこにハマってしまうと、考える力を宗教に預けるようになり、その人の頭は、鋼鉄のヘルメットが覆っているような状態になってしまい、やがてそのヘルメットによって「組織の教え」以外の考えをすべて跳ね返し、否定するようになります。考える力を奪うということは、きわめて犯罪的な行為だと思います。――信仰の薄い人から見れば「そんなバカな」ということを本気で信じていますよね。塩谷さん:私がかつて関わった、20歳で旧統一教会に入り40代で脱会した女性は「体は40代になったけど、精神は20歳のままなんですよね」と話していました。カルト宗教が、その人の考える力を奪い続けたという表れですよね。信仰とは、その人が主体的に何を信じるかであって、信じ込ませることではないのです。――なぜ、カルトや危険な宗教にはまってしまう人が後を絶たないのでしょうか。塩谷さん:危険な宗教の特徴として、二分法を用いるという点があります。この世界を「正しい世界」と「間違った世界」だったり、「善人」と「悪人」に分ける。性格が真面目で「正しい人」や「善人」でありたい人、正解を求めてしまいがちな人は狙われやすい。カルトはその人の不安をいかにも理解したように装って安心させ、取り込んでいく。そして自分は「正しいことをやっている」と信じさせて、今度は勧誘する側に取り込む。そうなると彼ら・彼女らは一生懸命勧誘(伝道活動)を始めます。基本、真面目な人が多いからです。 ――とはいえ、赤の他人に近い人が話すことを、疑いもせずに「正解」「正しい」と思ってしまうものでしょうか。塩谷さん:勧誘・接触の中で、個人情報を吸い取っているから、それが可能になるのです。何回か集会に行くうちに突然「偉い先生」が現れる。そして今の状況や心理状態をズバリ言い当てるので、「ご先祖が~」などという荒唐無稽な話でも、悩みや苦しみを抱えている人にはストンと落ちてしまうのです。また、危険な宗教の中には「この世の終わり」をしばしば持ち出す団体がありますが、それは信者が人生を諦めて献金してくれるから。お金を集めたいから言っているだけなのです。組織の上に行くと、そうした集金システムが見えてくる。そこではっと気が付いて脱会できるかどうかが鍵です。――旧統一教会は身を滅ぼすような高額の献金が問題視されています。ただ、寄付や献金は健全な宗教でもあります。どう違うのですか。塩谷さん:おっしゃるように、どの宗教も寄付や献金はあります。何が違うのかを分かりやすく例えると、大学の卒業生が大学に寄付をするとしたら、「その学校に通ったことへの感謝」「学校が好きだから」といった前向きな気持ちがあると思います。健全な宗教への寄付や献金も、それと似ています。 一方で危険な宗教団体は、恐怖心や不安をあおってその人の考える力を奪い、その不安の解消のために多額の献金や物品の購入を迫ります。健全な宗教の愛は「無償の愛」ですが、危険な宗教は「見返りを求める愛」なのです。お金を出してこれを買えば、あなたも家族も、ご先祖も救われると。教えが本物なら、「押し売り」は必要ありません。偽物だから、なんだかんだと理屈をつけて押し売りするしかないのです。――そもそも「ご先祖が~」などという教えは、キリスト教に基づくものなのでしょうか。先祖を気にするのは日本独特の文化のようにも思えるのですが。塩谷さん:聖書の教えからは完全に逸脱しています。一神教であるキリスト教は「一人一人を神様が作った」という考え方です。その人に起こることはその人だけのもので、それは罪であっても、その人だけのもの。「ご先祖が~」と語ること自体が、あり得ないことです。旧統一教会の教義書である『原理講論』と聖書はまったく別物だということは知ってほしいと思います。集金目的のために、ご先祖を大切にするという日本人の心情を、巧妙に利用しているだけなのです。――これだけ世間から批判を受けて問題視されても、危険な宗教団体がなくならないのはなぜでしょうか。塩谷さん:被害者意識が植えつけられているので、批判を「迫害」ととらえ、結束がより強固になります。今の旧統一教会もそうした状況でしょう。安倍元首相の国葬も、旧統一教会に勢いを与えると思います。「国葬されるほどの人と、私たちは関係していた。やはり私たちは正しかったんだ」と。抜本的な解決策はありません。山上徹也容疑者がその一人ですが、困窮する二世、三世をどう救っていくのか。それを考えなければならない時期が来ていると感じています。 (構成/AERA dot.編集部・國府田英之)