「靖国が消える日」とは
靖国神社は1869(明治2)年、明治天皇の勅許を受けて現社地での招魂社創建が決定され、時の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建されたのがはじまり。 祭神として日本の軍人、軍属等を祀る。 創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。 1879年(明治12年)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。 招魂社なので、氏子地域は存在しない。 1946年(昭和21年)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった。 神社本庁に属さない単立宗教法人。 靖国神社・元ナンバー3が告発した「靖国が消える日」の真意 いよいよ戦没者慰霊の場でなくなる…? 2017年8月3日 現代ビジネス 靖国神社No.3の人物が異例の内部告発を行った。 靖国は誰にも知られぬよう、またまた変質しようとしているらしい。 この2、3年の間に一部の政治家の関与もあって、トップの宮司の判断だけで急速にあり方を変えようとしているという。 戦前の近代日本の権威をすべて合祀することで、生き残りをはかろうというのか。 しかし、それは維新の記念碑であり、明治以降の戦死・戦病死者の慰霊施設というかつての靖国神社とは似も似つかぬものなのだ。, …(略)… 露店が出ていた時代、みたままつりの期間には30万人の参拝者があった。 それが2015年には半減し、16年にも14年に比べると6割減とさらに減っている。 注目されるのは、参拝者の減少とともに、昇殿参拝者や遊就館の拝観者が2016年には14年の3割近く減少していることだった。 露店を目当てに来ていた参拝者も、意外と真摯な信仰や関心を抱いていたことになる。 靖国神社から露店が消えた顛末について、それを批判的な観点から述べているのが、宮澤佳廣氏の新刊『靖国神社が消える日』(小学館)である。 著者が6月末に靖国神社を辞めたばかりの元禰宜であることを考えると、本のタイトルにはかなりの衝撃がある。 靖国神社では、トップに宮司がいて、次が権宮司であり、禰宜はそれに継ぐ地位である。 つまり著者は、少し前まで靖国神社のNo.3であった。 いったいなぜ、みたままつりから、そして靖国神社から露店は一斉に消えてしまったのか。 それは、酒による騒ぎをなくし、神社を静謐な空間に戻すためであったと理解されているが、実際には、宮司のかなり強引なやり方でことは決定されたらしい。 …(略)… 合祀されたA級戦犯の分祀について、靖国神社はそれは不可能だとしてきた。 だが、膨大な数の戦没者を祀る靖国神社の祭祀の仕方は他に例のないもので、分祀が不可能だとは思えない。 要は靖国神社の意向次第だ。 別のところにA級戦犯を祀る神社を創建し、そこに遷座させるという方法なら無理なく分祀ができるだろう。 そもそも、A級戦犯は戦場で亡くなったわけではなく、靖国神社の合祀基準から外れている。 昭和天皇の合祀に対する不快感も、それが関係している。 靖国神社が現在のままなら、首相の参拝も、天皇の参拝も難しい。 そして、戦争を直接知る人間も消滅し、靖国神社への関心も年々薄れていく可能性がある。 安部首相が退任すれば、それに拍車をかけることになる。 …(略)… 1986年に再開された付属施設・遊就館(ゆうしゅうかん)について、私は日本の過去の侵略戦争を美化・正当化する宣伝センターとは全く思わない。 戦争を美談で包むようにして、様々な人々の心で支えるべき招魂社をきれいにし、人払いをかけるようなことを推し進めたら、国民の靖国神社ではなくなってしまうことだろう。 海外の日本兵墓地を気にも留めていない、インチキ政治家の似非愛国心の象徴に靖国参拝がなっている現状は、はなはだ面白くない。 昭和天皇はことの重要性を十分理解しており、A級戦犯が合祀されたのち、靖国参拝を止めた。 靖国参拝を行う閣僚は「どこの国でも戦没者を慰霊している」といった類の話をするが、戦犯は戦争犯罪人であって戦没者ではない。 また、戦争の関連で亡くなった人々は戦犯や軍属に限らず多数いる。 戦犯を靖国にまとめて祀ることで問題が発生しているなら分祀する柔軟性を古来の神道は持っていた。 米国の戦没者慰霊施設である「アーリントン国立墓地」はあらゆる宗教を許容している。 千鳥ケ淵戦没者墓苑は、宗教性のない日本の戦没者慰霊施設。 第二次世界大戦の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している。 靖国から全ての戦没者千鳥ヶ淵にうつすのもよいのかもしれない。 靖国神社の参拝問題とは、いつから? 簡単でわかりやすい解説とA級戦犯の意味 わかりやすくシリーズ 50秒でニュースは読める