良い道具
例えば、かわいい女の子とデートをする時、カッコよくて性能の良い「車」を持っておけば、そのメリットは大きい。例えば、会社で事務作業や編集作業をする時、CPUの処理速度が速く、ハードディスクの容量が大きく、ディスプレイが大きな「パソコン」を持っていれば、そのメリットは大きい。例えば、家族と安全に幸せに暮らす時、間取りが広くて構造が頑丈で景色が良く、治安も交通アクセスも良い「家」に住んでいると、そのメリットは大きい。車、パソコン、家などは、誰もがその効用を認め、欲しがる「道具」である。だが、江戸時代の人は、もっとすごくて役立つ道具を持っていた。その人々による教育の影響で、子孫たちは明治に入り、その道具を「道具教科」と呼んだ。全ての学問、知識に先立ち、人生で最も大切で、最も大きな可能性を切り拓き、他の何にもまして重要で役に立つ「道具」とは…「国語」であった。賢明にも、わが国の明治の先人たちは、国語に「道具教科」という名を与えたのであった。良き交通手段を持っていなければ、移動と体験が制約を受ける。良き通信手段を持っていなければ、自己表現と伝達の機会が制約を受ける。良き居住手段を持っていなければ、生活の安全と幸福が阻害される。これと同じように、良き言葉を持っていなければ、他の教科の理解力も落ち、人間関係も耕せず、延いては人生の可能性も制約を受け、発掘できる「自分」の姿も小さなものになってしまう。だから、江戸時代の人々は言葉を「道具」と位置付け、道具だからとバカにせず、道具だから大切にした。その姿と言葉に学んだ明治の先人たちは、だからこそ「道具教科」と呼んだのだった。「国語=道具」。素晴らしい定義ではないだろうか。これこそ先人の知恵というものである。「読書合宿」の第9回で、今回はとうとう福田恒存氏の作品を読む。氏はこの「道具」としての日本語を何より愛し、誰より深く巧みに使いこなした「文士」だ。学生たちにも、正しく深い国語観は、資格や車や語学力よりもずっとずっと本質的に、永続的に役立つものだということが分かるだろう。国語を「あんぱん」に喩えれば、会計や営業などは「表面のゴマつぶ」に過ぎない。今から、我々の国語「日本語」の美しさ、有り難さを味わう共感が楽しみでたまらない。だが、もう一つ言い忘れてはいけない「道具」は、この勉強会を主宰するOさん・Mさんのさりげなくも配慮溢れる計画と、この時間をともに過ごす仲間の存在である。「人を道具だなんて、失礼だ」と言う人もいるか。ならば私は、そういう人こそ道具を大事にしていない人だと答えよう。それこそ国語力の錯乱である。名著。日程。仲間。この三つの「最高の道具」が揃った時、若者の心に火がつき、頭脳がパワーアップするのは間違いない。あぁ…あと6日。本当に楽しみだ。