環境
私自身、若者の就職支援をやってきたのだが、「若者の環境を整えれば、もっと成長するはずだ」などと考えたことはない。家もある。親もいる。働かなくても学問ができる。塾にも行かせてもらえる。進学、就職情報も腐るほどある。奨学金制度もいくつもある。偏差値や適性検査など、思考省略サービスも無数にある。遊びや酒、占い、ネット、ゲームなど、現実逃避代行支援サービスもたくさんある。これ以上、何の環境整備が必要だというのか。ここまで与えられて、なおかつ「カンキョー」などと言う人がいたら、幼稚園からやり直せと言いたい。別に、途上国と比べて説教しようなどという時代遅れなことはやらないが、そもそも、環境整備が成長の条件だというのは、個人にはあまり当てはめてはいけない考え方ではないかと思う。だから私は、サークルの学生たちに毎年一度は言う。「僕は、皆さんに最高の環境を作ってあげたいなんてことは全く考えていない」と。「ただ、居場所を最高の環境にできる人間になってほしい」と。環境の欠落や不足が問題なのではない。欠落や不足を言い訳にする性格こそが問題だ。吉田松陰の『講孟余話』にもあるように、環境とはその人を限定する要素ではなく、「その人がどんな人であるか」をはっきりさせてくれる要素に過ぎない。人間は環境では決まらないのだ。ただ、環境に対する態度で決まるだけだ。意志の弱い人間、物事を考えたことがない人間は「環境のせいだ」と言ってあれこれ理由を付けるが、それは、「I am 環境のせいにする人間!」と言っているのと同じだ。我々は、理由を巧みに分析してみせる人間を賢いと思ってはならない。賢い人間とは、現実打開の方策を示し、実践する人間だ。原因の指摘や発見は、解決なのではなく、解決のための仮説の糸口を示したに過ぎない。「教育環境を変えれば、日本が変わる」「雇用制度を変えれば、日本が変わる」「環境問題が解決されれば、日本が変わる」…なわけないだろ。日本人が日本人を信頼する以外に、日本が変わる手掛かりがあるものか。いつも制度、法制、環境、システムに頼ってばかりの唯物論者の知的傲慢さには、正直辟易する。どうして人間を見ないのか。夢がある限り、人間はいつも不足に満ちた生き物だ。ならば、居場所を最高の環境と思えない限り、まともな前進はあるまい。不足にも感謝できるようでなければ、まともな解決はもたらされまい。そういう受け止め方を鍛えるのが教育なのであって、考える力を省いたり、考えなくても答えが分かったと錯覚させるのが教育ではないはずだ。環境、環境、環境…流行語の魔力に負けて、「我々の心の中にまず最高の環境を作る」という素朴な原点を見失わないようにしたいものである。