歴史の勉強
「喫茶店で旧字体の歴史書を読むなんて、いくら趣味でもマニアックすぎる」「蔵書7,000冊のうち、800冊近くが歴史関係なんて、趣味にしてはやりすぎだ」「付き合いや営業もしないで、週一で学生と歴史の勉強をするなんて、プライベートの域を超えている」友人、知人から歴史の勉強を続けている理由を聞かれて、私は「趣味」や「プライベート」と答えてきた。そう答えたら、このような返事がよく返ってきた。もちろん、歴史の勉強が趣味やプライベートだとは思っていない。ただ、他人の時間を最初から奇特で無駄っぽいと決め付けてくる人には、こう答えるしかないだけのことだ。歴史を勉強し始めた理由は、ただ、私が自分の心の直感に正直でありたかったからだ。歴史を何かに役立てようなんてケチなことは、考えたこともない。ただ、中学生くらいの頃から、この社会にはタブーや偽善があるような不信感を拭いきれなかった。子供には具体的に説明できなくても、なんだか一番大事なことだけが巧妙にごまかされたまま、早く大人になれと急かされているような気がしていた。それに、私が子供の頃に読んだ伝記や歴史物語と比べて、学校の歴史の授業は明らかに面白くなかった。エンターテインメント的に面白くないのではなく、知的に、精神的に面白くないのである。何か、こう、英雄に自己投影したり、翌日から自然の風景が違って見えてきたりするような、あのワクワク感はなかった。ワクワク感なんてテストには関係ないだろうが、とにかく私は、好きなものを奪われたような不満を感じていた。さらに決定的だったのは、学校の歴史の授業では死んだ人を馬鹿にしていたことだ。子供ながら「かめかん」やお墓、仏像が好きだった私には、この事実が学校の歴史に対する拒絶感を植え付けた。私は親に対する反抗期など持つ余裕もないくらい、中学生の頃は経済的にも精神的にも苦しかった。学校の授業は全く聞かなかったが、亡くなった祖父母、父とは毎日心の中で対話を続けた。父が生きた意味、父が生きた時代、父が生きるはずだった時代のことを考えようと、ただ色々と模索していたら、いつしか歴史の本をよく読むようになっていた。だから、私の歴史学習には、受験での有利さを見込む期待はなかったし、政治的な動機もなかったし、党派を作ろうという野心もなかった。歴史の知識で食べたこともないし、食べるつもりもない。役立ったかどうかは分からないし、そんなことを考える必要も感じない。強いて効用を考えてみれば、ただ、歴史を学んでいることで、会計や営業が中心の仕事の方向性が作られたという実感くらいしかない。いわば、歴史を学んでいることが、別に何の役に立っているわけでもないのである。「ならば、どうして学ぶのか?」と言う人もいるだろう。私はそんな問いに対し、「毎日、あらゆる事柄に対し、何かに役立つかどうかという浅薄な動機を投げつけて生きている自分に気付くから」と答える。別に歴史に限らず、本当に好きなことなら、ただそれが好きだし、大切だからとしか答えようがないのではなかろうか。道元ではないが、「學ぶとは、自己を習ふなり」のように、学びから見える自分に気付くこと自体が有り難いと感じるのではなかろうか。ある人が数学に挫折したとする。その人は数学が自分を挫折させたと思っている。だが、数学はその人に「あなたは不慣れなことをすぐに向いていない、苦手だと決めつける人間だ」ということを気付かせたに過ぎない。我々はこうしていつも、何かの教科やスポーツ、知識を学んでいるようで、実は自分を習っているのではないだろうか。私には、苦手だが好きな教科もたくさんあった。学校は大嫌いだが勉強は大好きだ。テストがあろうがなかろうが、好きなものは知りたい。それ以前に、勉強に対して、得意だとか不得意などと考えたくないのである。得意になれば手を抜く勉強も、不得意なら投げ出す勉強も、ともに間違っていると思う。一人の人生で多くを極めることはできないが、人は誰でも、一生をかけて向き合うライフワーク的なテーマを持つべきだと思う。でなければ、人生の羅針盤と座標を失うのではないだろうか。今日の近現代史勉強会では、多くの学生が「歴史を学ぶ意義」について語り合っていた。「歴史を学ぶとは、自分を知ることだ」という素晴らしい答えも聞かれた。こうして書けば、簡明至極な、ありふれた、何の工夫もない言葉かもしれない。だが、自分の学びの実感として、こんな素朴な言葉を分かち合える一体感こそ、得難いのではないだろうか。学ぶほど大いなるものとのつながりが回復し、学ぶほど自分の小ささと無力さを感じ、それでいて感謝と希望が湧き上がってくるのが、歴史の勉強だ。十数年も歴史の本を読んできて、私の歴史学習の動機は、「より日本人らしい日本人になる」しかない。これからも変わらないだろう。だが、それで十分良いと思っている。