ある問答
私は主義主張がはっきりしている方だし、良くも悪くも発言にあまり遠慮しないので、よくいろんな意見を聞かれる。別に意見が役立つとかいうことではなく、ただ、会議や議論の口火を切るのに役立つだけ、という場合もある。そんな性格やキャラのためか、人が最初に意見を表明しないような問題を、いつも先に聞かれやすい、方だと思っている。その中で思い返せばよく聞かれたのは、「死刑をどう思うか」という質問だ。別に私は法学者でも僧侶でも牧師でもないし、私に聞いたところで世の中はピクリとも動かないのであるが、こんなことに限ってよく聞かれるのだ。全く、お得な性格である。この性格のせいで、他人の顔色を窺わずに意見を構築、表明できるようになったからだ。しかし、ずいぶん恥もかいた。死刑そのものについて言えば、私は素朴に賛成だ。素朴に考えてはいけないことかもしれないが、殺人犯によって人間が一人、自らの意思や寿命、病気によらず地上からいなくなった、というのは厳然たる事実だ。過失や正当防衛は別として、殺意と計画と準備をもって人を殺めたなら、それは相応の覚悟でやったに決まっている。殺人とは、私的に相手に死刑宣告を下し、執行したということではないのか。「神ならぬ人間が人を裁けるのか?」と反対の人は言うが、加害者は現に、神ならぬ身で人間を裁いているではないか。まず批判すべきは、そっちの「裁き」じゃないのか?そんな確信犯的な加害者の罪を放置して、犠牲者が「殺され損」になるのは、あまり難しい理論に待つことなく、私は素朴におかしいと思う。それに、死刑制度が未然に抑止している未発の悲劇も多いはずだ。私は死刑およびその制度が、より多くの人を殺めるよりも救っていると考える。そして、人間社会から殺人罪がなくならない限り、より多くの優等な生命を保護できる制度の方が自然だと考える。殺人事件を起こす人間には様々な動機があることはあるのだろうが、そこまで追い詰められた過程には、自分にも原因があるだろう。事件の精査に慎重を期すのは当然だが、死刑はそれ自体、必要だと私は思う。誤審の場合に取り返しがつかないという危険はもちろんあるが、その仮説は、死刑の是非を論じる材料というよりは、誤審を減らす方向で考えるべき問題なのではないだろうか。…と、まあ、いつもだいたいこんな感じで答える。すると、フェミっぽい女性からは、「小島さんは国家が人を殺すことを認めるんですね」などと言われる。私は一般的な殺人を肯定しているのではない。一人の人間を故意に殺めた人間の報いとして、明らかに犠牲者の立場と社会の治安維持の前提に立って言っているのである。なんで「国家が人を殺す」みたいに、共産主義的な被害妄想めいた言い方に翻訳するのか。じゃあ、国家が人を殺すのは悪くて、個人が人を殺すのはいいのか。そもそも、国民が目指すべきは、死刑のない国以前に殺人事件が少ない国ではないのか。死刑を廃止するなら、国家権力の批判などという前提から論じるのではなく、死刑に代わる抑止力や代替策を提案すべきではないのか。もしそんなものがあれば、既に人類はそれを発見しているだろうし、どの民族も悩む問題であるために、真っ先に、そしてずっと大切にされているはずだ。しかし、個人の犯罪を予防・抑止する上で、死刑以上の手段はない。それは昔の人間が残酷だったのではなく、人類がより多くの人間を守るために下した苦渋の決断だと思う。私は法律も判例も専門的には知らないので、初歩的な誤認をしているかもしれないが、死刑制度を考える時は、共同体の保存や被害者の苦しみを優先させるべきだという意見はいつもある。より多くの人を生かしたいと賛成すれば、「国家による殺人を認めるんですね」と言われるのは、どうも納得がいかない。じゃあ、私が「より多くの人が死の恐怖に怯え、実際に殺されることがあってもいい、ということですね?」と言うと、どう答えるのだろうか。国家がやらないならいいんだ、とでも言うのだろうか。どうにも分からない問題である。