|
カテゴリ:村上春樹
8時過ぎまで働いて、くたくたになって帰宅。帰りにスーパーで紀文のパック
のおでんを買う。だいこんもうまいが、じゃがいももいける。ビール、お酒 でできあがる。いやー、毎日意地みたいに日記書いてるな。この人仕事 してるの、と思ってる人もいるでしょうが、ばりばりに仕事してます。その合間 に10~20分で書いてるだけですよ。 それで今日また忘れ物をしてしまった。ほんとにどうしたんだろう、最近は。 まあ、今日の忘れ物は「ねじまき鳥第三部」だし、忘れたところは会社の マイデスクの引き出しだから、どうってことないんだけどね。どおりでバッグ が軽かったはずだ。携帯の十倍は重いからね、「ねじまき鳥第三部」は。旅先 で枕になりそうな厚さだものね、あの本は。 しょうがないので、何日か前に、なんでこんな文章を今読 まなきゃいけないんだと書いた「スコット・フイッツジェラルドの幻影」を最後 まで読む。ラストはすばらしい。 「そこにはまるで自分の肉を削り取りながら書いているような切々たる響 きがある。しかもその文章はあくまで高潔であり、彼の選ぶひとつひとつの 言葉が上質な悲しみに満ちている。そこにはもはや酔っぱらいの女々しい 自己憐憫の響きはない。芝居がかった青臭い哲学的宣言もない。(ここ、痛い なーコメント筆者)そこにあるものは、生きるという作業の本質的な切なさと哀 しみを誰よりも真剣に引き受けて、じっと前を見据 えながらなんとかまっとうに生きていこうとする一人の男のパセティックな、 真摯な視線である。そこには何もかもを凌駕してしまう深い絶望がある。 しかし何もかもを凌駕する絶望をさらに凌駕する何かが、彼の文章の中 にはうかがえる。スコット・フィッツジェラルドは矛盾と欠点に満ちた人物 であった。それはたしかだ。しかし彼は、文章を書かせればどんな高貴な人間 になることもできた。どれほど激しく打ちのめされていても、ひとたびペンを取 れば、彼は誰よりもしゃんと背筋をのばすことができた。おそらく彼が自殺 という方向に向かわなかったのもそのせいだろう。フイッツジェラルド はどれほど深い絶望の中にあっても、常に文章の力というものを信じていたし、 それは最後の最後まで彼の護符となりつづけた。彼は息を引き取る最後の瞬間 まで、どれだけ女々しいと言われようとも、その文章の光輝 にしっかりとしがみついていた。文章というものがあるかぎり、自分はいつか 救済されるはずだと信じていた。」(村上春樹、「バビロンに帰る」p288~9) いい文章ですね。村上春樹の文章のラスト、とくに長編小説のそれは、まるで日没のようです。白熱した午後の光が円熟し、熟しきった黄金色へと変わる時、最後の予感が読む者に訪れる。周囲は黄金色に包まれ、太陽の 沈下するスピードは増し、ドライブ感が高まり、読む者は「太陽よ、沈むな」 と心の中でつぶやく。でも、やまない雨がないように沈まない太陽もない。それは 人間の小さな思惑をあざ笑うかのように、地表に近づくにつれ、落下の速度を 上げ、やがて地平線にすっぽりと吸い込まれてしまう。まるで巨人の口 にやすやすと呑み込まれる卵の黄身のように。そして、その後にあかあかとした 残照が空一面に広がる。春樹君の長編の最後を読み終わった後のあの残照の美 しさ。ああいう文章を一度でいいから書いてみたい。おそらくはあと百万年 はかかるかもしれないけれど。 前掲書はこういう文章で締めくくられている。 「スコット・フィッツジェラルドが分子に分解されてしまってからもう 五十年以上が経つ。しかし人々はまだ彼の作品を読みつづけている。もちろん 百万年先のことまでは誰にもわからないのだけれど。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.01.02 09:45:02
コメント(0) | コメントを書く
[村上春樹] カテゴリの最新記事
|
|