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カテゴリ:その他
泥棒の背中を洗う警官、その警官の背中を洗う女店員。ここには物語を、文体を立体的にする複数の視点が存在している。その伊丹の視点に大江は共感する。そのことばは伊丹を深く励ましたであろうと思う。伊集院が静かに語りはじめる。 「伊丹さんにはよく意味のわからないNGと、よく意味のわからないおっけーがあったんです。なぜ今のがだめなのか、なぜ今のがいいのか、やってるこっちにはよくわからない。でも役者はとにかく淡々と何度でも繰り返し演じるしかない。でも、あのシーンでは最初の出前持ちをからかうシーン、最後の背中を洗うシーン、あれはとにかく延々と繰り返し演技させられたのを覚えています。伊丹さんはその大江さんのことばを聞いて、きっと「報われた」と思ったと思いますよ」 ひとつの物語を複数個の視点から立体的に浮かび上がらせる。大江はこの話を周到に準備してきたのである。けっして語りがうまいとはいえない彼の話は、伏線から、最後の一語まで、実にみごとだった。 そして私は思う。 この話にはもうひとつのしかけがある、と。 この同じ話が、一般のリスナーと目の前の伊集院ではまったく異なる受けとられ方をしている。リスナーは最後の一言で警官が伊集院であったことを知り、伊集院は最初の一言でそのことを知る。 同じ話がまったく違う受けとられ方をしているのである。 複数個の視点の重要性を物語るエピソードを、複数個の受けとられ方をするように物語る。 この話は入れ子構造になっているのである。マトリョーシカ人形になっている。 そして、それこそが物語の本質なのである。 大江にこれだけの話をさせる伊集院光という人はかなりの人物であるということになるのではないだろうか。 そして、私はふと気づく。彼がその話の中で「小太り」「小太り」という言葉をさかんに連発していたことを。 「小太り」の「光」。それはまた大江の息子に連なるのではないか、と。 この話はいったいどこまで入れ子構造になっているのだろう。 物語の要諦、それは自分の後頭部を想像の目で見ることだ。 そんなことを思いながら、私は日曜の午後、日の当たるリビングでひとり静かに配水管のチェックを待つのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
初めまして(んっ、二回目かな?)、河童と申します。
この記事を読んで、三十数年前に神田の共立講堂で大江健三郎と今は亡き小田実との対談を聴いたのを思い出しました。 エネルギッシュで力強い小田氏とは対照的に、ぼそぼそと喋る大江氏がとても印象に残っています。 おっしゃるとおり複眼的視点はとても大切ですね。 内田先生のブログでこちらを知って早一年。 毎回すばらしいエントリを読めて有り難いです。 しかもFreeで、なんか申し訳ないです。 (2008.03.04 01:28:19)
M17星雲さん、こんにちは。
ぼくもこの放送を聞いていましたが、 こちらのブログを読むまでは、思い返すほどのものではありませんでした。この記事を読めてよかったです。 ところで、どうして臨場感ある細かい対談内容まで覚えられるのですか。 (2008.03.04 11:42:53)
河童さんへ
コメントありがとうございます。以前に河童さんの生息場所についてコメントした覚えがありますから、たしか二度目ですね。私も高校生の頃、大江、小田両氏の講演をそれぞれ一度ずつ聞いた覚えがあります。小田氏のエネルギッシュな早口ぶりと、大江氏のぼそぼそしゃべりは私も印象に残っています。でも大江氏のぼそぼそしゃべり、最近ではなかなか味が出てきたようにも思います。今回の話は聞いて得したなあと思ったので、おすそわけのつもりで文章にしてみました。ちょっと長かったですかね。では。また。 (2008.03.04 20:03:26)
みつひろさんへ
コメントありがとうございます。そうですか、同じ番組をお聞きになっていたんですね。だったらおわかりだと思いますが、私の文章は実際の話とは微妙に異なっているところがあります。どうして臨場感のある細かい内容まで覚えられるかというお尋ねですが、これも「覚えている」というのとはちょっと違うようです。話す人にはそれぞれその人固有の振動数のようなものがあって、それをある程度つかむとなんとなく話が復元できるということではないでしょうか。ちょうどものまねをする人がある人に声を似せると、なんとなくその人のいいそうなことをしゃべってしまうというのに近いような気もします。このへんのことは今度時間があったらブログにも書いてみたいと思います。では。 (2008.03.04 20:08:12)
僕は敬愛する伊丹氏のエピソードに弱いんです。
それに大江氏のことを僕は誤解していたようです。 肌理の細かい、味わいの深い文章に参りました。 感謝です。 (2008.03.05 22:17:59)
またまた、うなってしまいました。
入れ子構造をみやぶり、息子さんと同じ名前の伊集院さんとの結びつけまで連想する。みごとなラジオの再現と臨場感で私もその日曜の午後、M17星雲さんのリビングにいた錯覚に陥りました。大江さんの「見る前に跳べ」という本をつい最近読んだばかり。実は、スガシカオ氏も愛読していたそうです。 (2008.03.06 02:49:28)
shinさんへ
あの番組では大江氏の伊丹氏に対する愛情が強く感じられました。「人生にはパトロンというものが必要であり、パトロンとは自分を支えてくれながら、どこかで自分をつきはなして見てくれる人。伊丹は私のパトロンのひとりでした」と大江氏は語っていました。コメントありがとうございました。 (2008.03.06 06:07:17)
ケイさんへ
コメントありがとうございます。シカオ氏が大江の「芽むしり仔撃ち」を絶賛しているラジオ番組を聴いて、その本を読んだことがあります。そして、彼がこの本を愛している理由が深く理解できました。機会があれば読んでみてください。では。 (2008.03.06 06:20:16)
入れ子構造こそが本質というお話ですが、私はむしろM17星雲さんの「伊集院光がいかほどの人物か」というセリフにしびれました。
伊丹さんや大江さんの素晴らしさは(ある意味で)分かりやすいのですが、むしろそれを引き出した方に注目し賞賛しているところ。 M17星雲さんの小論文の指導もこういうかたちなんでしょうね。本当に多くの人が自分でも気付かなかった才能や感性を磨き伸ばせることになるんだろうなと思いました。 そして、ほかの方も賞賛されていたように、ラジオに耳を傾けるという文字とは遠くへだたった行為を追体験させてしまうその描写にも拍手です。うっとりしました。 (2008.03.09 12:43:15)
ほんのしおりさんへ
いやいや、ほんのしおりさんのほめことばのほうが私より数段上だと思います。でも、とておうれしいことばをいただきました。ありがとうございます。 私は何気ない、ふつうのところで、でもしっかりがんばっている人間がいる。それに気づいたとき、「ああ、書いてみようかな」という気になるんです。そして、その「がんばり」を再現するためには、「がんばっている人がいる」ではまるで伝わらない。その時、自分の受けとめたものを自分なりのことばで再現しなければならない。そういう時に文章の起動装置が動き出すんです。 単なるラジオ番組の再現に見えますが、この文章には自分なりの思いをこめたので、たくさんの方のコメントをいただいたことをほんとうにうれしく思います。 いつもあたたかいことばをありがとうございます。 (2008.03.09 21:28:57)
通りすがりの者です。大江健三郎を検索していてここに辿り着きました。大江さんのお人柄がすごくよく出ていますね。自分も一緒にラジオを聴いているようでした。心あったまりました。ありがとうございましたm(__)m
(2010.06.03 21:38:01)
良いお話しをありがとうございます。
泣きました。 (2020.04.27 21:15:18)
非常に面白かったです。
背筋がぞわぞわします (2020.11.11 11:23:55) |
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