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カテゴリ:村上春樹
去年の10月頃から村上春樹の本を継続的に読んでいる。なにしろ仕事熱心な人だから、まだぜんぜん読み終わらないが、まったくあきることがない。なぜあきないかというと、私の場合最大の理由は、その文章にある。
おそらく氏自身が「私には文才がない」といわれていたと記憶しているが、これはつまらない謙遜などではなく、率直な表白ではないだろうか。 自分の文才のなさにどういうところで人は気づくか。これはやっぱり読み直した時の索漠とした気持ちですね。なんでこんなところに重複があるのか、この文末の単調な不細工さはいったいなんなのか、あそこもここもほころびだらけ。そういう時、深い溜息とともに人は「あー、俺ってなんて文才がないんだろう」と思うわけですね。個人的にはそうだし、この経験にはかなり普遍性があるのではないかと感じる。 村上氏もおそらく例外ではないだろう。しかし、彼は次の瞬間にはこう考える。 「たしかにこの文章は不細工だ。それは冷厳な事実である。しかし、そのほころびが瞬時に見てとれるということは、自分の頭の中によりよい文章のイメージが、あるべき文章のスタイルが存在しているということではないだろうか。それとの照合で目の前の文章が貧相に見えるとしたら、そのことを嘆くよりも、むしろその判断の向こうに(あるいはこちら側に)存在するあるべき自分の文体に向かって、一歩一歩歩を進めるべきではないか。下手な文章しか書けないのなら、徹底的に書き直せばいいじゃないか。そうすることで一歩一歩前進することが文章を書くということだ」と。 これは想像にすぎないが、氏の文章を一年以上読んでくると、そのことが感じとれる(ような気がする)。ためしに「ねじまき鳥と火曜日の女たち」という短篇と、「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭部分を読み比べてほしい。そこにはおびただしい書き直しの跡がある。そして、その際の書き直しは、おそらく文章のうねりというかリズムというか、大きな流れを作るための実に丹念で細かな作業である。この作業の徹底ぶりには一種の感動さえ覚える。 これはタフでなければやれない作業であり、同時に文章に対する繊細な感覚がなければ成り立たない作業でもある。このタフネスには学ぶべきものがある。 彼の長編を読んでいると、井戸の底にロープでしばりつけた鉛の塊をそっとおろしている男の姿が目に浮かぶ。ずっしりとした重みのある題材をどこまでも深く到達させるためには、ロープはなるべくまっすぐでじょうぶなほうがいい。鉛直方向にまっすぐに進むロープ。ねじれず、まがらず、よれない頑丈なロープ。そういうぴんと張ったロープのタフさ、そこに彼の文章の本質があると思う。私はそれを学びたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.12.16 10:41:29
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