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M17星雲の光と影

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2006.01.20
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カテゴリ:村上春樹
村上春樹の短編集「レキシントンの幽霊」をちびちびと読み進めている。仕事を終えてげっそりと疲れて帰宅する時でも、「あっ、電車の中で『氷男』の続きが読めるんだ」と思うと、気持ちが一瞬なごむ。こういう小さなしあわせをもたらす作品が身近にあるということは大事ですね。すべからく芸術というものはこうあるべきだ、とは思わないけれど、一日の疲れをそっと癒してくれる作品に出会えるのは幸せなことだ。

「私は一日仕事をして疲れて帰宅した人々のこころを癒すためにこそ作品を書くのだ」といったのはパパ・ハイドンだけど、その太陽のような人柄に温められた日向の水を泳ぐおたまじゃくしの中から、モーツァルトという天才は誕生したのだ。天才には感性を鋭くとぎすます逆境も必要だけれど、その天分を育むための酸素と栄養に満ちた温かい水もまた必要なのだ。

この短編集の二作品の短評を以下に述べる。


氷男

おそらく短篇傑作選のようなものが編まれたとしても、その中には入らないだろうと思われる作品である。しかし、この作品を紡ぎ出すひとつひとつの文章のきめの細かなこと。すみずみまで周到に目配りがなされ、粒のそろった端正なことばづかいで、小さなひとつの宇宙が読む者の頭の中にぽっかりと浮かび上がる。村上春樹の文章そのものをじっくりと味わいたいという読者にはお薦めの一品である。女性を主人公にした彼の作品特有の、繊細でしっとりとした味わいがある。

この作品は読んでじっくりと味わえばそれでいいのだと思う。おいしい料理を食べた後に、その料理を遠心分離器にかけて、クロマトグラフィーで成分分析したいという人には「勝手にやってれば」というしかないけれども。


トニー滝谷

短篇には珍しくストーリー性を追究した作品。視覚性も強く、映画化されたのもうなずける。個人的には、滝谷父子の仕事の「思想性」のなさという部分に強く惹かれた。父のトロンボーン、子の精密でリアリスティックな絵、ともに同時代の人々には「思想性がない」「芸術性に欠ける」と非難、嘲笑される。しかし、それを味わう人々の心はやすらぎと幸せに包まれる。そのような仕事のもつ意味。こういう素材が文学作品で取り上げられること自体がきわめて稀である。ここにはわずかながら村上氏自身の仕事への気持ちもこめられているように思われる。

この「無思想性」がこの作品の核となるのかと思ったが、後半はほとんど妻の話に終始する。おなじみの「失われたもの」というテーマである。おそらくは「ねじまき鳥」にもこの作品が遠くこだましているのだろう。前半部と後半部がうまく結合して一つの作品世界として完成しているのかどうか、そこにやや不安は感じさせるものの、後半部の白眉はやはりこの文章である。

「女が帰った後で、トニー滝谷は妻の衣装室に入って、ドアを閉め、妻の残していった服をしばらくぼんやりと眺めていた。どうしてあの女が服を見て泣いたのか、彼にはよく理解できなかった。その服は彼には妻が残していった影のように見えた。サイズ7の彼女の影が折り重なるように何列にも並んで、ハンガーから下がっていた。それは人間の存在が内包していた無限の(少なくとも理論的には無限の)可能性のサンプルを幾つか集めてぶらさげたもののように見えた。」

こういう文章に出会うと「まあ、こまごましたことはいいじゃないか」という気になる。「とにもかくにもこういう文章に出会えたのだから」と。そういう気持ちにさせるすばらしい文章である。







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Last updated  2006.01.20 20:34:29
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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