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M17星雲の光と影

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2006.02.14
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カテゴリ:村上春樹
この短編集を読み始めてからしばらくの間、なんともすっきりしない感じを味わっていた。うまく表現できないのだが、どうも作者の疲労感というか疲弊が文章の背後からただよってくるのである。「地震」というこの本のコンセプト自体がひょっとすると、ある種の「しばり」となって、作者の想像力の翼の動きを制約し、自由な飛翔を妨げているのではないか。そういう印象をもった。これはあくまでも感覚的印象であり、具体的にどこがどうというのではない。単にこちらが疲れていたからそう見えただけの話かもしれない。しかし、『レキシントンの幽霊』に見られた、さまざまなアプローチを「楽しむ」姿勢が、この本にはあまり見られない、そう思ったのは事実である。

「UFOが釧路に降りる」、「アイロンのある風景」、「神の子どもたちはみな踊る」の3作品の感想はおおよそそういうことになる。しかし、どの作品も導入部はすばらしい。地震のニュース映像を五日間見続け、突然家を出る主婦。海岸で流木のやぐらを組み、その焚き火を至上の楽しみとする男、そしてそれを見つめる若い男女。私生児として生まれ、幼時から神の子と言い聞かせられて育った男。いずれも「人間を超えたもの」との出会いがひとつのテーマとなっている。ただし、これらの作品においては結末がどうにもすっきりしない。村上作品特有の終結部のカタストロフが感じられない。あえて「アンチクライマックス」を意図しているのかもしれないが、結末に至っても火は大きく燃え上がらず、ぶすぶすと白い煙を立てながら、いつの間にか消えてしまう。そういう終わり方をするのである。これが冒頭の私の感想につながるわけだ。

もっとも完成度の高い作品は「タイランド」だろう。ここでは作品世界は作者の手の中にすっぽりとここちよく収まっている。といっても予定調和の世界だとか、作者の計算の中で作品が完結しているとかいうのではない。そんな作品は少なくとも彼の書いたものにはひとつもない。ここでは筆がのびていて、そののびた筆の描き出す世界が当初の想定を超えながら、しかし、しっかりと落ちつくべき場所に着地している。それはけっして予定到着地ではないが、いざその地点に着地してみると、「なるほどそこがおちつきどころか」という感触を与える。とにかく構成がいい。

さあ、これからだというところで「かえるくん、東京を救う」の登場である。
「う~ん、面白い。とっても面白いですよ。かえるさん」
「かえるくん」とかえるくんはまた指を立てて訂正した。

解説不要の怪作である。でも、最後のところはやはりちょっとくすぶりかげんかな、という気はしますが。

これが文芸誌に掲載された「連作 地震のあとで」の全貌である。これで一冊の本が編まれたとしたら、やはり私の読後感は少々くすぶり気味で、すこし「かたづかない」気分だっただ
ろう。ここには何かが足りない気がする。分量的なものではない。あくまでも質的なものである。もうひとつ何かが足りない。そう思ったと思う。

作者がはたして同じ気持ちを抱いたかどうか、それはわからない。でもこの短編集の最後には「蜂蜜パイ」という書き下ろしの作品が掲載されている。これがすばらしい作品なのである。私は彼の短篇では「螢」を好む。「午後の最後の芝生」も「中国行きのスロウ・ボート」もすばらしい。でも数ある短篇の傑作の中でもひょっとするとこの「蜂蜜パイ」は最高の作品ではないかと思う。唯一の欠点は「うまく書けすぎていること」くらいである。

とにかく名作であり、名品である。これはできれば村上春樹嫌い、あるいは村上春樹食わず嫌いの方に是非一読をおすすめしたい。

「むらかみはるき~?新作が出ると、紀伊国屋のいちばん目立つところに気分が悪くなるくらい平積みにされている、あの気色の悪い作家の本だと~。だれがよむか、あんなもん、こちとら死んだじいちゃんの遺言で、大衆迎合のベストセラーなんかこんりんざい読まねえことになってんだい。てやんでい、べらぼうめい」

そう、あなた、あなたにいってるんですよ。そのお気持ちはよくわかります。それって、わずか一年半前の私の気持ちそのものですから。たしかに人間に好き嫌いはあります。大衆の好みはかならずしも上質でも良質でもない。それもよくわかります。またそれは事実でもあります。ただね、もしも私が一年半前に作家生活25周年記念と銘打って発売された講談社文庫大活字版の「ダンス・ダンス・ダンス」を手にとらなかったら、そして一ページ目の「よくいるかホテルの夢を見る。」という書き出しに吸いよせられて、4~5ページ立ち読みしなかったら、そしてその本を衝動買いして帰らなかったら、少なくともこのブログに書き込まれた文字の一字だって、この世には存在しなかったんです。それだけは確かです。もっともこんなブログが存在しなかったからといって世界にどんな変化が生じるわけでもないわけですが。とにかく彼の作品を一つだけ読んで、読むか読まないかを決めてもけっして損はない。私はそう思います。そしてその一作に何を選ぶかというと、私は「蜂蜜パイ」、この作品は最有力候補ではないかと考えます。そのくらいいいですよ、これは。

まあ、多くを語る必要はないでしょう。ここにはむだなことばはひとつもなく、必要なことばはすべてある。そういう作品です。文章のスタイルは他の作品とは明らかにちがいます。これは気の弱い、野心の少ない、短編しか書かない、あまりぱっとしない小説家が主人公の話です。そして、その小説家を描く文章そのものが、実はこの小説家がいかにも用いそうな、昭和の匂いのただよう、日本の良心的な短編作家が用いそうなスタイルで描かれているのです。ノーマン・ロックウェルがパイプを加えて自分の自画像を描く自分自身を描いている絵がありますね。ご存じでしょうか。あの絵を思い浮かべてください。ある小説家の姿が、その小説家がいかにも用いそうな文章のスタイルで描き出される。これはそういう二重構造をもった作品なんです。

でも、そんなことはどうでもよろしい。登場人物は男2人、女1人、子ども1人、および「とんきちくん&まさきちくん」ですが、そんなこともどうでもよろしい。私の読後の感想を一言で言えば、「あー、いますぐもういちど読みたいんだけど、もうすこしまってからにしよう。そっちのほうがより幸せが増すだろうから。でも、読みてー」というものでした。あほですね、はっきりいって。これでは小学生の感想文以下です。でもグルメ番組の頭の悪いレポーターみたいに「おいしーでーす。うん、おいしー、超おいしー」と連呼するしかないような作品もこの世には存在するのです。ごく少数だけど。そういう作品だと思います。日本の、昭和の、文人の、端正で清潔な文体に対するひそかなリスペクトがしみじみと感じられる作品です。そして村上春樹的終結のカタストロフ(というのはこの作品の場合、適切ではないかもしれないが)が存分に味わえる作品です。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のラスト、「ノルウェーの森」のラストが大好きで、まだ「蜂蜜パイ」を読んでおられない方がもしおられたとしたら、私はこういいたいと思います。

「なんとしあわせなかただ、あなたは。これからあの作品に出会うしあわせをまだ人生に残しておられるとは」






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Last updated  2006.02.14 21:38:01
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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