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M17星雲の光と影

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2007.09.06
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このところ書棚から養老先生の本をごそごそと取り出して読んでいる。今月の10日に先生の講演を聴く機会があるので、それまでに養老モードに入っておこうという算段である。

まず「死の壁」(新潮新書)を読む。これは薄手なので通勤電車の中で3日で読み終えた。本書は爆発的に売れた「バカの壁」に続く第二弾であり、前作同様、先生の口述を編集者がまとめるという形をとっている。意外にというと先生に失礼だが、なかなかの好著である。単なる断章の積み重ねではなく、最終章で大きく盛り上がる構成が先生の本としては異色である。私は最後の部分で、正直、ぐっと来てしまった。養老先生の本を読んで、にやりとしたり、ほーと感心したり、なるほどなあとうなったりすることはしばしばだが、ほろりとしたり、ぐっと来たことははじめてである。すでにご存じの方も多いとは思うが、そのエピソードをご紹介したい。

先生が4歳の時にお父上は結核で亡くなられた。末期の際に先生は父親の枕元に呼ばれた。親戚の人が「さあ、お父さんにさよならをいいなさい」と言う。しかし先生はどうしても「さよなら」がいえなかった。やがて、お父上は喀血をされ、ついに永眠された。

その記憶は先生の脳裏に鮮明に残った。それから成長して大人になってもことあるごとにそのことを思い出した。10代、20代、30代、成人して働くようになっても、ふとした時にその記憶がよみがえってくる。

先生は幼い頃からあいさつが苦手だった。人と会ってもうまくあいさつができない。なぜかはよくわからないのだが、なんとなくあいさつをしそびれてしまう。スムーズにあいさつのことばが出てこない。それは30代になっても同じだった。

ある日、地下鉄に乗っていて、先生は自分があいさつが苦手なことと、父親の死が結びついていることにはっと気づく。そして、初めて父親が死んだという実感が胸に迫ってくる。そして、同時に、自分は今まで父親の死を受け入れていなかった、認めてこなかったんだということにも気づく。なぜなら、自分は父親に「さよなら」を言わなかったからだ。

その瞬間に、なぜ自分が人にうまくあいさつできないのかという理由もわかってくる。父親の末期の際に私は「さよなら」を言えなかった。その直後に父親は亡くなった。そのことが先生のこころを深く長くしばりつづけていたのである。

先生はそのことに気づき、地下鉄の中で静かに涙を流されたという。

それ以降、あいさつが自然にできるようになり、父親の記憶も徐々に薄れてきた。

父親の死を受け入れることをかたくなに拒んでいた無意識の抑圧が意識化されたことで、長い間の呪縛が解けたのである。

深く印象に残る話である。その場所が地下鉄の車内だということも象徴的だ。

「死の壁」はこの話を終着点に見定めて一気に語り下ろされた本である。(と思う)

この本には「仕方がない」というフレーズが随所に使われている。

たとえば、こういう一節がある。

死には三つある。「私の死」、「あなたの死」、そして「だれかの死」だ。

これを一人称の死、二人称の死、三人称の死、といいかえてもいい。

「私の死」は存在しない。自分の死に自分が立ち会うことはできないし、自分の死体を自分で見ることもできない。つまり「私の死」を私が認識できないということは、言い換えればそれは「ない」も同然ということだ。だったら「私の死」について考えても「仕方がない」。

大切なのは、「あなたの死」だ。大事な人の死をどう受けとめるか。これがもっとも重要な問題だ。

「だれかの死」とは、いわゆる一般的・抽象的な「死」だ。「人はみな死ぬ」というときの死がそれにあたる。それは見知らぬ誰かさんの死だから、そのことばを聞いても人は平気でいられる。

では、大事な「あなたの死」をいったいどのように受け入れればいいのか。基本的にはここでも「仕方がない」ということばが鍵になる。もっと生きていてほしかったけれど、こればかりは人間の力でどうなるものでもない。だから「仕方がない」。でもその仕方のなさからプラスの力を生み出すことはできるはずだ。「仕方がない」は「どうしようもない」こととはちがう。それは自然の力をやむをえないものとして受け入れた上で、「あしたから自分はどう生きるか」と考えることである。そこから前進する力を得ることはできるはずだ。

だから、大事な人の死に関しても「仕方がない」が大事なのである。

先生は大略そのように述べておられる。

今、「死の壁」が手許になく、この文章はすべて私の記憶にもとづいて書いた。細部の表現はかなり違うはずだし、覚え間違いもあるだろう。ただ私がこのようにこの本を受けとめたということも、ひとつの事実である。

本を手許に置かなくても感想が書けるのは、おそらく養老先生の考えが咀嚼されつくされたものであり、そのことばの向こうに先生の考えそのものが実体感をもってしっかりと私に感じとれるからだろうと思う。

ふだん本の感想文を書く時には、私はその本を必ず手許に置くようにしているし、そうせずに感想文を書こうと思ったことはない。でもこの本に関してはなぜか手許に本もないのに、ふらふらと書き始めてしまった

そのことのなかに、あるいはこの本の本質があるのかもしれない。

ことばは思考の仮の姿であり、ことばなんて忘れてしまっても、考えていることの核心が伝わればいいんだよ。

死とは意識を超えたものであり、その本質をつかむためには意識に頼っているだけではだめなんだよ。

死を見つめつづけていても何も見えてはこない。死の本質はそれが逆方向から照らし出す生のあり方を通してかろうじて知られるものなんだよ。

私はこれらのメッセージをこの本から受けとった。しかし、ここに書いたことは「死の壁」のどこにも書かれてはいない。まことに不思議なことである。

この本を読み終えて、いま「あなたの脳にはクセがあるーー都市主義の限界」(中公文庫)を読んでいるところである。タイトルのつけ方にはやや疑問が残るが(これは編集者の問題である)、冒頭の「都市主義の限界」、続く「日本人の『歴史の消し方』」はいずれもユニークで、雄大かつ遠大な視点から文明社会の核心に切り込んだすばらしい文章である。

ここには居住まいを正して、物事の本質に向かって太刀を鋭く振り下ろす先生の姿を感じとることができる。

同時に私は養老先生が河合隼雄先生の追悼文を書かれたことの意味がわかるような気がしてきた。

養老先生こそ河合先生の追悼文のもっともふさわしい書き手である。そう思うとともに、その追悼文を読んでみたくなった。

ますます先生の講演を聴くのがたのしみになってきたのである。





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Last updated  2007.09.06 20:32:35
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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