|
カテゴリ:村上春樹
日曜日に内田樹×柴田元幸トークセッションに出かける。
場所は青山ブックセンター本店。会場は120名ほど入る、やや暗めの小ホールである。開演予定の10分ほど前に会場に入る。 定刻に柴田「かえるくん」教授と内田先生が登場。司会進行&聞き役は柴田さん、語り部は内田先生という配役でトークがはじまる。 その詳細は内田先生のブログで紹介されるだろうから割愛するとして、当日感じたことを少しだけ書き留めておく。 まず内田樹流言語運用術について。 直接、内田先生の話を聴くのはこれで3回目である。1回目は3年ほど前に資生堂主催の鈴木晶先生とのトークショー。2回目は今回と同じ柴田先生とのトークショーであった。 前回、前々回と比べると、少しは落ち着いて先生の語り口を観察することができるようになった。 先生の発話の特徴として、極端に間投詞が少ないことが挙げられる。「えー」「あのー」「そのー」というようなつなぎことばがほとんどない。というか、まったくない。 まあ、これは頭の性能の良い人には一般的に見られる特徴である。最近では、中田英寿のインタビューを見ていて、間投詞の少なさを感じた。 ただ、内田先生の場合には、単に間投詞がないだけではない。その間投詞の代わりに単語がすばやく埋め込まれる。その後の構文を考える以前に、「とりあえず」時間の空隙に単語が放り込まれる。 それによって、自由作文はとりあえず「指定語作文」になる。そして発語が開始される。「何を言うか」以前に、とりあえず発語装置が起動するのである。 その語の響きや運動を先生は上方から俯瞰しながら、ことばの動きに微調整を加え、新たなフレーズが作られていく。とりあえず単語を放り込むタツル1号と、その運動を観察するタツル2号の共同作業がこうして始まる。そして2号はしばしば1号の選択した単語やフレーズに感嘆し、目をみはる。そのエネルギーが推進力となって、徐々に運動が加速していく。 「おお、これはおもしろい、すると、次はこうだな」と2号が考え、1号がそれに呼応する。こうしてことばが次々とドライブしていき、その軌跡が内田先生の発言となる。 以上が内田樹流発話作法の一端である。 閑話休題。 昨日の演題は「村上春樹はからだで読め」。当然、随所で内田先生の「村上春樹論」が語られた。中には本邦初公開、「極私的村上春樹文学との邂逅」の顛末も披露され、聴衆は「おおお」とからだを大きくのけぞらせることになるのであるが、これもまた先生ご自身が書かれる可能性があるので割愛することとして。 内田先生の話のなかで印象に残った部分を少しだけ書き留めておこう。 村上文学の根底には「世界は『父なるもの』を喪失した」という認識がある。たとえば、「神は死んだ」という場合、通常は、「神に代わる価値はなにか」という話になり、「それは自然科学だ」というような話になる。この場合、「特定の父は死んでいる」が、「父なるもの」の喪失は認識されていない。要するに、「世界は統一原理によって説明することが可能だ」という信憑はいささかも揺らいでいないからである。 いわゆる「脱構築」ですら、「これからは『脱構築』の時代だ。これで世界は解釈可能だ」と考えている点では、同列である。 しかし、村上文学の根底には「父なるもの」はもはや存在しないという痛切な認識がある。「世界の統一原理は失われてしまった」という意識がある。 父なるものが存在しないということを痛切に認識した人間はどのような行動をとるか。 「父なるもの」が喪失してしまった以上、新たな父を求める営みは不毛である。そこでは特定の父が死んだのではなく、「父なるもの」そのものが失われているからだ。統一原理そのもの、絶対的価値そのものが消滅してしまっているからである。 絶対的な正義という「大きな正しさ」が失われてしまった以上、われわれは「小さなフェアネス」を求めるしかなくなる。自分の具体的な生活、自分の身の回りに、できるだけ公正に、独善に陥らず、自らを、そして他者を客観視して、「フェアネス」を作りあげるしか方法はない。そして、そこにこそ村上春樹的世界がある。 レシピ集を失ったら、とにかく食材を買ってきて、手探りで自前の料理を作るしかない。正しい生き方が見失われてしまったなら、まずはしわくちゃのワイシャツにどのように「正しく」アイロンをかけるか、というところからはじめるしかない。(ここは私の蛇足です) それが村上文学の根底を流れている。 その指摘に私は深くうなずく。 「父なるものの死」を痛切に知っているからこそ、「父の死後、自分がどうふるまうべきか」を具体的に考えることができる。その行動の具体性が、「父の死」の認識の痛切さを担保するのである。 もうひとつ。「村上氏は『アンダーグラウンド』『約束された場所で』以降、作家として変化したと思いますか」という聴衆の問いに対する先生の答。 「神の子どもたちはみな踊る」を含めた3作において、村上氏の方法は一貫している。ある出来事が起こった。その出来事の中心にあるのは空虚である。実体はない。そして、村上氏は出来事の中心部にはあえて手を触れることなく、周辺部にいてその後遺症に苦しむ人々、被害を受けた人々、「その後」を生きる人々に焦点を当てる。なぜそうするのか。それは「父なるものの不在」の時代においては、出来事の中心は空虚だからだ。しかし、その空虚さは周辺の人々に邪悪な「働き」を及ぼす。その邪悪さとどう闘うか、あるいはそのような世界でどのように生きていくか、それが彼のテーマなのだ。 この見解にも私は深くうなずく。 ここで大事なのは、世界には「邪悪なもの」という実体が存在するのではなく、空虚なものが「邪悪」という働きをもたらすというところである。この分析の的確さに、私は内田樹の知性の閃きを見る。 オウム真理教事件、阪神大震災。一方は人災、他方は天災という違いがあるが、その中心には実は「何もない」。一方にはマンガじみた道化芝居があり、もう一方には人間の意思や意図を離れた自然がある。いずれにも中心点もなければ、それらを説明する統一的な原理もない。 にもかかわらず、(あるいは「したがって」というべきか)邪悪な作用を受けて、人々は苦しみ、脅え、過去に縛りつけられる。 そこにおいて人は何をよりどころとして生きていけばよいのか。それを村上氏は描く。 これは私の村上作品の読後感と深く共振する。 とりあえずここに書き記した話だけでも私は十分すぎるほどの満腹感を味わった。 それでは最後にお二方の印象的なせりふを一言ずつご紹介しておこう。 「『絶対に~だ』『絶対~に違いない』と絶対を振り回す人間に限って、実は自分の周辺の人間同士の相対的な勝ち負けしか眼中にない」(@内田樹先生。けだし名言である) 「時々ねー、いわれるんですよー。『おまえ、その中途半端な謙虚さはなんとかならんのか』って」(@柴田元幸。私が最も大声で笑ったせりふである。しかし、柴田「かえるくん」教授って、ほんとにいい人です。「かえるくん、文学を救う」。そういいたくなります) 以上、現場からM17がお送りいたしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[村上春樹] カテゴリの最新記事
|
|