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テーマ:本日の1冊(3688)
カテゴリ:本
福岡伸一「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)読了。
この本は講談社のPR誌「本」の連載をまとめたものであり、その感想は以前にここでも述べたことがある。 雑誌掲載時にほとんど目を通していたので、あらためて購入するかどうか迷ったのだが、もう一度通読して全体像を確認しておきたいと思ったのである。 文章の緻密さ、卓抜な比喩、説明能力の高さ、行間に漂うそこはかとないリリシズムなどの印象は少しも変わらない。福岡氏の文章は、目のつまった端正なことばの織物を思わせる。どこにもほつれやほころびやゆるみのない、きわめて完成度の高い文章である。 その織物に描かれた柄には独特の陰影が見てとれる。本書で紹介されている研究者の背後にはそれぞれ固有の影が宿っており、それが人物像に立体感を与えている。 ただし、個々の文章や素材を云々するだけでは、この本を評したことにはならない。本は単なる文章の集合体ではない。最近では雑文を無造作に寄せ集めただけの本を時折見かけるけれど、そういうものは雑文集ではあっても、本来は「本」という名に値しないものだ。 一冊の「本」にはやはり「大きな絵」がなければならない。本を書くという作業は、大きな絵を描くことであり、そこには構想力と構成力が必要となる。その「大きな絵」をじっくりと味わうことができたのは、本書通読の最大の喜びだった。 この本の各章は独立性が高い。だが本として通読してみると、ここには大きな構想が感じられる。読み物としての面白さを追求しながらも、この本全体を貫く「主張」が明確に浮かび上がってくる。 本書通読のもうひとつの喜びは、連載時にはなかった「エピローグ」に出会えたことである。10p足らずの短文だが、気品をたたえたみずみずしい珠玉の文章である。 そこで筆者は幼い日の生きものとの関わりを記している。 まず、アオスジアゲハについて。クスノキの葉裏で卵から孵った蝶の幼虫はやがてサナギになる。福岡少年は、そのサナギのついた枝を折って家に持ち帰り、花瓶に挿して、毎日観察する。 読んでいておもわずため息がでるような文章の一節を紹介する。 「緑色の硬い宝石のようなサナギは、日がたつにつれ徐々に変化してくる。殻がだんだん薄くなり内部がうっすらと透けて見えるようになる。中に複雑な文様が浮かび上がってくる。幼虫が蝶に変わること。これほど劇的なメタモルフォーゼは他にはない。そのすべてがこの小さなサナギの内部で進行しているのだ。」 やがて、羽化が始まる。 「サナギの背中が割れ、蝶が姿を現す。このとき蝶はまだ濡れそぼった糸くずのようにくしゃくしゃで、今自分が出てきたばかりのサナギの殻に、せわしなく脚や触角を動かしながら必死にしがみついている。やがて羽の細い翅脈の一本一本に生命がみなぎってくると、青い斑点が黒地の羽の中に一直線に並ぶ。アオスジアゲハの完成である。蝶は二、三度ためらいがちに羽を閉じたり開いたりして、ふと次の瞬間に、空中へ飛び立つ。」 少年は秋の最後に生まれた幼虫がサナギのまま冬を越すことを知る。春一番で羽化する蝶を見るために、彼は秋の終わりにサナギをたくさん集め、かごに入れてそっと物置の奥に置く。 春になり、徐々に気温が上がり、夏も間近に感じられるようになったある日、少年ははっとサナギのことを思い出す。もうあれから七ヶ月もたっている。 少年はおそるおそる暗い物置に入り、かごをそっと開く。 「十個以上あったはずのサナギはすべて羽化していた。羽化したアオスジアゲハは、あるものはかごの上部に細い脚を絡ませたまま、またあるものは下部におりかさなるようにして、それでいて羽をきれいに開いたまま、ほとんど何の損傷もなく完全に乾燥していた。そして蝶たちは、まるで生きているかのように、羽の鮮やかなブルーを完璧に保っていた。」 さらにトカゲの卵についての思い出が語られる。小さな楕円形のトカゲの卵を見つけた少年は、それを土を敷いた小箱に入れて観察する。 だが、なかなか孵化は起こらない。待ちきれなくなった少年は、卵に小さな穴を開けて、中を覗き見る。そこには「卵黄をお腹に抱いた小さなトカゲの赤ちゃんが、不釣合いに大きな頭を丸めるように静かに眠っていた」 「次の瞬間、私は見てはいけないものを見たような気がして、すぐにふたを閉じようとした。まもなく私は、自分が行ってしまったことが取り返しのつかないことを悟った。殻を接着剤で閉じることはできても、そこに息づいていたものを元通りにすることはできないということを。いったん外気に触れたトカゲの赤ちゃんは、徐々に腐り始め、形が溶けていった。」 これらのエピソードを通して筆者は何を語ろうとしているのか。 「命あるものを畏れよ」と何かが私の耳元で囁く。生命を探究する唯一の生命体、それが人間だとするならば、その根底には「生命への畏敬」がなければならない。 命はたえず流動し、揺らぎをつづける動的過程そのものである。 生命体は気の遠くなるような多種多様な要素や条件によって構成されている。それらは一刻も休むことなく、互いに呼吸を合わせて小さな跳躍を繰り返している。その回りには大きな縄がゆっくりと回りつづける。それは、ちょうど人間がタテに並んで息を揃えて行う「大縄跳び」のようなものである。彼らの足並みには乱れがない。規則正しく、正確に、跳躍は繰り返され、その回りを精妙に大きな縄が規則的に回りつづける。生命活動はそのようにして営まれている。 そこへ、どこからか「お嬢さん、おはいんなさい」という声が聞こえてくる。 生命活動への人為的な介入は、この大縄飛びに外から入ることを意味する。注意深く、リズムを整え、呼吸を合わせないと、大縄に引っかかり、縄跳びは止まってしまう。それは生命活動の停止を意味する。はたして人類は、その縄跳びのリズムや呼吸、規則や法則性を十分に理解しているのだろうか。もしそれらを知らないまま無雑作に縄の中に入ろうとしているとしたら。しかも、片手に鋭利なメスを握って。 エピローグの最後の一節に著者の思いはこめられている。ここをゴールと見定めて、本書の叙述は展開し、ようやくこの部分で収束し、収斂する。 「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。」 「これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。」 「私たちは、自然の流れの前に跪(ひざまず)く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。」 そして、本書は静かに終わるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.04.16 20:55:37
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