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カテゴリ:本
トルーマン・カポーティ『冷血』(佐々田雅子訳、新潮文庫)を読む。
以前から「いつかは読まねば」と思いながら、読まずにやりすごしてきた本の一冊である。旧訳版はすでに活字の小ささが致命的であり(「ああ、年とったなあ」と、しみじみ)、大きな活字の新訳が出たのはありがたかった。ただし、今度は本の分厚さが増している。600頁以上ある。テーマも、本もずしりと重い。「さあ、次、何読もうかな」という時に、気軽に手に取れる本ではない。というわけで、買ったはいいが、一年近く、本棚の隅に置きっぱなしにしていたのである。 だが読みはじめると、徐々に加速がつき、後半は1日100頁以上のペースで飛ばした。そして、読み終わって一言。「ああ、文学だなあ」。 われながらまぬけな感想だが、しかし、これが実感である。 この本はカンザス州ホルカム村で起きた一家四人惨殺事件を素材としたノンフィクション・タッチの小説である。 その犯人の一人、ペリー・エドワード・スミスは、十分に長編小説の主人公たる資格をもっている。その精神のねじれやゆがみ、そこから生まれる翳りとある種の輝き、そして、時折、顔をのぞかせる子供のような率直さ。「極悪なイノセンス」とも呼ぶべき逆説的存在。そのペリーの強力な吸引力がカポーティの心をとらえて放さなかった様子が、この本の随所に見てとれる。 それを興味というと客観的にすぎるし、共感というのとも違う。性格も資質も行動パターンもおよそかけはなれていながら、そこには人間性の根底を揺り動かす不思議な、そして無気味な共鳴音が聞きとれる。カポーティはおそらくペリー・スミスの中に自らの陰画を見てしまったのではないだろうか。 私が「文学だなあ」と呟いたのは、まず作品の冒頭で、犠牲者のクラッター一家の四人を血と肉と体温をもった人間として生き生きと読者の目の前に「創造」した後に、彼らの惨殺を描写する、その凄みのある筆力に負うところが大きい。 文学的な想像と創造の力は、読み手の眼前に生き生きとした人間像を立ち上げるためにこそある。しかし、その手腕を使えば、突然の死によって彼らがこの世から消え去った後の喪失感を、まるで近親者であるかのようにありありと感じさせることも可能だ。生を生き生きとリアルに描けば描くほど、その後に描かれた死のリアリティも増す。文学的創造力を本来とは逆の方向に用いて、一家四人の死をまざまざと読み手に感じさせ、さらにそこに事実の重みをずしりとかける。こういう文学的構想を「悪魔のたくらみ」と呼んでも、それほど的はずれではないように私は思う。 しかも、その描写の厚みというか、そこに用いられた油絵の具の量と厚みはただごとではない。この密度でこのテーマをこれだけの分量で描ききることは、ほとんど狂気すれすれの作業といわねばならない。私は後半部を読み進めながら、何度か寒気を感じた。題材やテーマや犯人の心理描写や絞首刑の場面そのものが怖かったというよりも、作者の筆を駆っているものそのものに対する恐怖である。そこには作者の意図を超えた、強い力が働いている。その力に身を委ねてしまうと、作者がこちらの世界に戻ってこれなくなるようなぎりぎりの境界線を目の前にしながら、作者は筆を進めている。そこにただよう妖気のようなものを私は怖いと感じた。 こういうものを書いた後で、はたして人が正気を保ちうるものなのかどうか。私にはよくわからない。 しかし、もしもそれが可能だったとしたら、その向こうに広がるのは、まぎれもないドストエフスキー的な世界だろう。 私はカポーティという作家のことをよく知らない。というか、全然知らない。 しかし、彼の著作リストがこの作品で事実上終わっていることはなんとなく理解できるように思う。 彼は自らの文学的創造力と、現実に起こった殺戮の重みに、ほとんど押しつぶされそうになっている。 本書の最後、ディックとペリーの戦慄的な絞首刑の場面の後で、作者は懸命に作品の着地点を探し、なんとかそれに成功している。捜査官ディックと殺されたナンシー・クラスターの親友スーザンはクラスター一家の墓の前で偶然出会う。待ち合わせの場所に走り去るスーザンの後ろ姿には、わずかながら、生の希望を、未来への望みを感じとることができる。 しかし、それは作品全体に流れる圧倒的な量の「冷血」の前では、あまりにもささやかなぬくもりであり、あたたかみであるにすぎない。 「IN COLD BLOOD」 この世界の地底には、凍えるような冷たい血が脈々と流れているのだろうか。 人間の内面に広がる広大な宇宙。その広がりと深みを感じさせる作品に出会った時、私は「ああ、文学だなあ」と呟く。 その意味で、「冷血」はまぎれもない文学作品である。 「ノンフィクション・ノベル」などという便利なことばに振り回されて、この作品を「技術」や「手法」の世界のなかに矮小化することを私は好まない。 この作品は、文学の深みと広がりのなかにおいてこそ、その真の価値を明らかにするものであると私は信じる。 この本を読み終えて、「ああ、文学だなあ」と呟いた後、私は唐突に「ドストエフスキーが読みたいなあ」と思う。 「おいおい、ドストエフスキーかよ」。そう一人でつっこみをいれながら。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.17 22:10:41
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