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カテゴリ:本
最近、通勤時のバッグに入っている本は、たとえば「夏目漱石 私の個人主義など」(中公クラシックス)、シェークスピア「ハムレット」、「ロミオとジュリエット」、「リチャード三世」(新潮文庫)などである。
「ほほう、古典のお勉強ですか。感心ですなあ」 「いや、勉強なんてとんでもない」 「では、なぜ古典を」 実際に聞かれたわけではないのだが、誰かに書名を覗かれたら、そういう反応が返ってきそうである。これに対してどう答えたらいいだろう。 「べつに古典だから読んでいるわけではない。ここにあることばが自分にとって『リアル』だから読んでいるだけだ」 これで了解してもらえればいいのだが、おそらくはわかってもらえないだろう。 しかたがない。確率論でいくか。 なぜ古典を読むか。この問いの立て方にまず問題がある。むしろ「あなたはなぜ古典を読まないのか」、「あなたはなぜ新刊を選ぶのか」。そう問い返したほうがいいように思う。 あなたはなぜ現代の本だけを選択的に読むのか。おそらく人は自分の感じていること、自分の思いに近いものを書物の中に探すのだろうが、それが現代、ないしは近現代に書かれたものの中にあると考える根拠はどこにあるのか。そもそも今あなたの抱いている関心や興味、思考や悩みのうち、いったいどれほどのものが「今」という時間に規定されたものなのだろう。 私にはよくわからない。いや、冷静に考えれば、それらが現代の本に書かれている確率は、過去の本に書かれている確率よりもはるかに低いということはいえそうだ。それに「現代」の本は多すぎる。雑多だし、時間のふるいにもかけられていない。こちらに自分の賭け金を置くのは、かなりギャンブル性の高い賭けといえる。 現代人の関心事のほとんどは、過去の人々の関心事でもあった。政治、経済、社会、思想、歴史はもちろん、より個人的な家族、教育、恋愛、生活に至るまで、それらをめぐる問題のどれだけが、現代という時代に特有のものなのか、私には疑問に思える。 遠い昔から現在に至るまでの時の流れを「線」ととらえると、現在中心主義は世界を現在という「点」でとらえようとしている。長大な線とほとんど面積ももたない点のどちらに真理や真実が多く含まれているか。その答は自ずから明らかではないだろうか。 「じじいがしたり顔して古典なんか読みやがって」 かつてはそう思った時期もあった。しかし、今では書店にうず高く積まれている新刊書の山を見て「なぜわれわれはかくも『現代』という時に縛られているのか」、そう思う。 われわれは選択の余地なく「今」という時を生きている。しかし、だからといって、なぜ本を選ぶ時にまで「今」に縛りつけられる必要があるのだろう。私にはその意味がよくわからない。 そして、ある日、きまぐれで「マクベス」を手にとった。高校生の頃からこの手の本はなんども手にとってはみたものの、すぐに読むのをやめてしまった。考えてみれば、あの頃、自分の頭のなかには「現在」しかなかったように思う。しかし、その「現在」も今となっては、すでに遠い「過去」である。それは、なんの変哲もない、時間軸上に位置するたったひとつの点にすぎない。 年を重ねるということは、かつての自分の現在が、次々に過去へと変わっていく経験を重ねることである。今のこの時も、すぐに灰色の過去になる。そういう思いを何度も味わうことである。だとしたら、年を取ることの役得は現在の呪縛から自らを解き放つことにある。そうはいえないだろうか。 そんなことを思いながら、ぱらぱらとめくったシェークスピアの世界は、濃密でリアルで、あちこちが鋭角的にとがったことばの洪水であり、氾濫であった。未来とは何か。悪とは何か。運命とは、愛とは、行動とは、思索とは、人間とは何か。そういうリアルな問いが、緊密な物語世界の構築を通してありありと眼前に浮上する。 答え?もちろんそんなものはない。生きるとは問いを生きることであり、問うことそのものである。だから性急に答を求めることは死に急ぐことを意味する。われわれが欲するのはどこまでも深く掘り下げられた問いそのものである。そして、そのような問いは一定の幅をもった時間の厚みのうちにこそ見出すべきものであり、それは時のふるいにかけられ、時代性をやすりで適度に削りとられていることが望ましい。 だから、私が古典をバッグに入れるのは、目的ではなく、結果なのである。古典を読むことにいっさいの理由づけはいらない。ただそのなかのことばが「リアル」だから、切実だから、私はそれを読むだけだ。 漱石の「私の個人主義」に次のような一節がある。彼は学習院大学で、学生達を前に「学習院という学校は社会的地位の好い人がはいる学校のように世間から見なされております。」と述べ、権力や金力があなたがたにはきっと付随してくるだろうと言う。 「私の考えによると、責任を解しない金力家は、世の中にあってはならないものなのです。そのわけを一口にお話しするとこうなります。金銭というものはしごく重宝なもので、何へでも自由自在に融通がきく。たとえば今私がここで、相場をして十万円儲けたとすると、その十万円で家屋を立てることもできるし、書籍を買うこともできるし、または花柳社会を賑わすこともできるし、つまりどんな形にでも変わって行くことができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれを振りまいて、人間の徳義心を買い占める、すなわちその人の魂を堕落させる道具とするのです。相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力をもって働きうるとすれば、どうしても不都合な応用といわなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際そのとおりに金が活動する以上はいたしかたがない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力にはかならず責任がついてまわらなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面に使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑みこむだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないというのです。いな自分自身にもすむまいというのです。」 「いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないということになるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起こってくるというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発揮しようとすると、他を妨害する。権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。」(夏目漱石「私の個人主義」) 漱石はべつに今日の夕刊を見ながらこれを語ったわけではない。これは1914年、今から94年前、彼の死の二年前になされた講演の一節である。 このすこやかな「常識」がすがすがしく清涼な響きをともなって感じられるとすれば、あたかも蓮の花のように清楚で可憐に感じられるとすれば、それは「現代」に生きるわれわれが、首までどっぷりと汚泥に浸かっていることを意味している。 古典はそのことを痛切に私に教えてくれるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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