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今日の朝刊の1面の真ん中に「宮本顕治氏が死去」とあり、久し振りに見る名前に、感慨にふけった。
18日午後2時33分、都内の病院で老衰のために死去した。98歳だった。親族で密葬を行い、29日の参院選投票後に共産党としての葬儀を行う。 日本共産党の指導者として40年近く第一線で活躍した。1997年以降病気もあって、活動から引退していた。 驚いたことに、与野党から悼む声が広がったことだ。自民党の中曽根元首相は「私たちとは考え方、政策は違うが、一個の政治家として、信念を貫いて堂々としていた。その姿に敬意を表していた。首相の時に質問を受け、敵ながらあっぱれだと感じていた」 安倍首相「故人のご冥福をお祈りする」 太田・公明党代表「激動の時代を生きてこられたと思う。心からご冥福をお祈りする」 小沢・民主党代表「戦前戦後を通じて共産党の今日を築いた人だ。立場も考え方も全く違うがご冥福をお祈りしたい」 福島・社民党党首「戦前、治安維持法に反対し、日本の軍事国家に反対し、戦後の共産党の立役者としてがんばってきた人だ。心からお悔やみを申し上げる」 池田大作・創価学会名誉会長が宮本顕治氏に弔電。 立花隆さんが、寄稿文を寄せていた。 「宮本氏は共産党の絶頂と没落を一身で極めるという有為転変の人生を送った人だった。宮本氏のあまりにも大きなカリスマ的権威の重しが取れることで、共産党が柔軟な政治的思考を取り戻せるようになることを祈りたい」 私が宮本顕治氏を知ったのは、奥さんの作家でもある宮本百合子さんの小説や作品によってだった。「播州平野」「伸子」そして、獄中にあった宮本顕治氏との交流をつづった「十二年の手紙」。彼の堅固な平和への思い、妻への愛などが書かれてあり、戦後の青年たちの心を揺さぶったものだった。 60年安保闘争のあとで、私が社会人になったときは、挫折した労働運動の活動家がそこらじゅうにいた。当時、共産党の国会議員もたったひとりだった。その人が「川上貫一さん」だった。脊の低い風采の上がらぬおじいさんの風情だったが、当時、たったひとりの共産党の国会議員で、大阪2区選出で、生まれて初めて演説会に行って、その圧倒的な力強い演説にたちまちファンになったものだ。 先輩に誘われていやいやながら行った演説会で、すっかり感動して帰ってきたことを覚えている。 そんなことを、宮本顕治氏の訃報を聞いて、思いだした。 古いタイプの政治家たちがどんどん亡くなっていき、これからは、保守も革新も新しい政治家たちが、これからの日本を引っ張っていくのでしょうね。そんなことを思った政治家の訃報でした。(+^i^+) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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