テーマ:ニュース(99737)
カテゴリ:歴史と教育
自分のファンタジーと日本の考古学を結びつける必要があるために、こういうニュースは気になります。(^^ゞ
もう一つの新聞記事。
これは纏向遺跡が邪馬台国のものである証拠になるのか? 魏志倭人伝に記された経路から言えば、九州説のほうが正しいようにも思える。また、纏向のベニバナ染織の技術が九州の邪馬台国にもすぐに伝播したとか、渡来人が九州にも大和にも来て技術を伝えたとか、いろいろと可能性は考えられる。 三世紀の日本は、女王の時代といっても過言ではない。まず、魏志倭人伝には卑弥呼が登場する。239年に卑弥呼は魏に遣使し、没するのが248年、その後は一時混乱するが、壹与が女王となっている。また、これとほぼ重なるかのように、『日本書紀』でも神功皇后が歴史の表舞台に登場する。201年に摂政となり、269年に没している。 『日本書紀』は、神功皇后の摂政40年あたりの記事で魏志倭人伝を引用し、神功皇后を卑弥呼に擬している。だが、神功皇后と卑弥呼とを簡単には同一視きない。神功皇后が実在の人物で、中国側には卑弥呼として登場しているという可能性はある。この意味では邪馬台国の大和説が正しいようにも思える。ところが、神功皇后の部分は創作がかなり入っているのではないかという見解もあり、卑弥呼という存在を歴史から抹殺するために、神功皇后なる虚像を作り上げていったのではないかとも考えられる。さて、このようにして日本の正史に吸収されてしまった卑弥呼は、九州にいたのか大和にいたのか。どちらともとれそうである。 それにしてもベニバナはエジプトや西アジアが原産というから、私のファンタジー(天皇の中央アジア起源説)を大いに刺激してくれる。(笑) 最近の私は、武烈天皇までは中央アジアに存在したというファンタジーに傾いているので、ここに登場する3世紀の渡来人は、おそらく中央アジア原始ヤマトの先遣隊なのである。 市教委は「中国との直接的な行き来の中で、最新技術だった染織が持ち込まれたのだろう。」としているが、239年に卑弥呼によって初めて中国との関係が成立したのではあるまいか? その当時にはすでに染織をしていたというのは、ちょっと成立しがたい見解ではあるまいか? まあ、非公式には中国と接触していたということはあるのだろうが、もしそうだとしたら、日本から招聘したというよりも中国から勝手にやってきたと考えたほうが真実に近いだろう。 「纏向は渡来人の都市国家」なんてことになったら面白いなあと勝手な想像をするσ(^^)。で、どこからその渡来人がやって来たかっていうと、当然、天山山脈北麓のヤマトゥでしょう。近くにはナラットという場所もあるし。(笑) 文字のない時代の考古学は、そこに住んだ人々の名前まではわからない。だから、纏向が邪馬台国なのかどうか、考古学的発見は最後の最後まで状況証拠でしかないだろう。そこにいろいろな想像が入り込む余地があるわけで、それが古代のロマンだ。(^^ゞ 人気blogランキング ↑この記事が面白かった方、またはこのブログを応援してくれる方は、是非こちらをクリックしてください。 「p(^o^) 和の空間」の Window Shopping |
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