夫の実家に遊びに行く。
埼玉県熊谷市に古くからつづく農家なので、両親はいまもふたりで田畑を守っている。1年中、とても忙しい。ほんとうは、わたしも、遊びに行っている場合ではないのだが、いつも、結果的に遊んでしまう。
手伝うつもりで出かけても、気がつくと、くつろいでいる。
わたしはバカ娘になって、土間でぼんやりしたり、ちちの話に耳を傾けたり、ははが打ってくれたうどんをつるつる食べたり、する。
お墓にはかならず、参る。
しかし、わたしのあれを「墓参」と呼んでいいのかどうか。
というのは、墓参のたびに行う、墓の敷地内の植栽の「思いきった剪定」は、もはやわたしの趣味なのだ。墓にいるひとびと——死者は、千の風になって吹いているということだけれど、たまには、墓のあたりでまどろんだり、車座になって話し込んだりすることもあるだろう。少なくとも、誰かが花を手向けるときくらい、やってきてくれるのではないかな——は、「ああ、また来た、あの乱暴者が」とささやき交しているのにちがいない。
道具は、剪定ハサミ、枝切りばさみ、のこぎり。
風が通るように、また新しい芽を呼ぶために、一所けん命刈りこむ。いつしか、恍惚としてくる。そこらじゅうの見えないひとびとは、「やれやれ」とあきれながらも、ちょっとは喜んでくだすっているような気がする。で、声に出し「どういたしまして〜」と叫んで帰る。
このたび。
熊谷の家の蔵に前に、ごまがたくさん干してあった。太った白ゴマで、とてもとてもおいしいごま。ははが一升瓶に詰めてくれるこのごまが、わたしの台所の宝物だ。
初めて、不思議なさやをつけたこの植物を見たとき、「あなた、誰?」と思った。ごまが、こんなふうに実るのだと知り、ちょっと涙が出そうになる。健気な姿だ。
これをこのまま2〜3週間乾燥させると、褐色になり、さやがはじける。ゴザの上で逆さにし、手でたたいて実を振り落とすのだそうだ。ごみをよけ、選別すると、わたしたちが「ごま」と呼ぶごまになる。
わたしはバカ娘にはちがいないが、ちちとははのつくった米、野菜は決して無駄にしないと誓いを立てている。この誓いを破ったら、そのときは、人でなしになる。
乾燥中の、ごま。
写真ではよく見えないかもしれませんが、
黒っぽいさやのなかに、ごまが実っています。
熊谷の白ごま。
かりかり梅(種をはずしフードプロセッサーにかける)。
干しわかめ(はさみで、ちょっとチョキチョキする)。
塩(伊勢神宮詣でのお土産に、いただいた塩)。
これらを混ぜて(塩は少し)、「ふりかけ」をつくりました。
「ふりかけ」を炊きたてのご飯に混ぜました。美味!