山や川に行くと、石が気になる。
気になって眺めているうち、たくさんの石のなかから、とっても気になる石がみつかって、またじっと見る。拾って、てのひらにのせ、感触をたしかめる。
そんな自分を、このごろ「石泥棒」かもしれないと、思いはじめている。
自然界の石には、ひとつひとつ存在理由があり、それより前に石が生じた理由もあるのだと思う。こういう石を、持ってきてしまうのは、いけないじゃないだろうか。
「ね、石って、山や川から持って来ちゃっても、いいもの?」
そう友だちに尋ねると、たいてい、
「少しならいいんじゃない?」
という答え。
「石、拾うとき、罪の意識におののかない?」
の質問には、
「おののかないよ。拾わないもの」
という答え。
そうか、みんなはあんまり拾わないのね。そこで、1つめの質問の答え:「少しならいいんじゃない?」を頼みとし、このごろは、いちどきに1個だけいただくようにしている。
玄関の火打ち石。
正確には、火打ち石のはたらきをする石ころだ。これは、もう15年ほど前に伊豆・今井浜の海岸で拾ったもの。
玄関から、家の者たちが出かけるとき——訪ねてきてくれたひとが帰るときにも、つい——「いってらっしゃい」と言いながら、肩先でふたつの石を打ち合わせる。夫も子どもも、これを「かちかち」と呼び、誰かが出かけようとするとき、「わたしが、かちかちするね」などとと言ったりする。
かちかちだなんて。かちかち山みたいだ。
いまでも、職人、芸人、あるいは危険な仕事に就くひとびとのおかみさんが、火打ち石の切り火で送りだす習慣が生きているという。相手の無事は、祈るほか手だてはないが、出がけに、火打ち石で威勢よく送りだすというのは、そこから1歩、前に踏みだす行為のような気がする。相手のためにできることの、ぎりぎりの線まで。
さて、約1年前、3階建ての、縦にひょろ長いこの家に越してきたとき、この「かちかち」に変化が生じた。誰かが出かける気配を追って、2階(台所も居間も、わたしの部屋も、みんな2階にある)から駆け降りても、「まだ行かない、ちょっと髪とかしてから」「電話、1本かけてから」など、タイミングがずれるのだ。そのたび、2階に戻り、また駆け降りて……。運動にはなるかもしれないが、わたしには、途切れさせたくない仕事だってある。
そこで、昨年、千葉県を旅したとき、拾った石を2階用の火打ち石とすることにした。2階の居間のあたりで「いってらっしゃい」と言い、かちかちする。インチキのようだが、インチキでもなんでも、かちかちやらないことには落ち着かなくなってしまったのだから、仕方ない。
玄関で、子どもを送りだす。かちかち。
これが、玄関の火打ち石です。
長年、かちかちやってたら、
少し、やせてきました。
2階の、火打ち石。
居間の入口の、ピアノの上に置いてあります。
レースのカーテンが、風でめくれないように、
重石としてカーテンの裾に石ころを
入れています。