けんちゃんがうちにやってきたのは、5年前のクリスマスだった。
サンタクロースに手をひかれて、きた。
けんちゃんってのは、食器洗い乾燥機。
夫が、クリスマスにプレゼントしてくれたのだ。あと片づけを手伝ってくれる手をひとつ贈られたようで、とてもうれしかったが、「またか」とみじかくため息もつく。
夫から、初めて贈られた誕生日プレゼントは、「かつおぶしけずり」だった。木屋製の、じつにいい「かつおぶしけずり」だったが、わたしはおおいに面食らった。なにせ、初めての誕生日プレゼントだ。小さなアクセサリーとか、ハンドバックとか、なんというかもうちょっと甘美なものでもいいんじゃないか、とね。
つぎの誕生日には、前からほしかった風変わりな植木鉢をもらった。
そのつぎの年は……、まあ、いいや。
この話を友だちにうち明けると、「そりゃ、ちょっとやだね」というひとと、「いいじゃない、実直な品。へんてこなアクセサリーやスカーフもらったりしたら、目も当てられないわよ」というひとと、意見はふたつに割れる。
けんちゃん。
家につくなり、彼は、どんどんはたらいてくれた。
食事のあとにゆとりが生まれたような気がして、うれしかった。しかし、それにも慣れると、「洗い上がったら、それぞれ、自分でけんちゃんから出て、食器棚の定位置にもどってくれるといいんだけどな、と思うようになったりする。いやはや感謝知らずの女である。
けんちゃんの仕事がすみ、わたしが洗い上がった食器をとり出して片づけるまでは、けんちゃんには何も入れられない。ここのところが、不都合といえば、ちょっと不都合だ。
あるとき。
システムキッチンのパンフレットを見るともなく見ていた。すると、食器洗い乾燥機が上下に2台ついたキッチンの写真があるではないか。いつでも洗い物を引き受けられるシステムなんだそうだ。貧乏性のわたしは、ちょっと、ぜいたく過ぎやしないか、と思う。
とにかく、けんちゃんのおかげで、わたしはやっぱりずいぶん楽をさせてもらっている。
どうしてけんちゃんという名前か、って?
まだけんちゃんの影もないころ、そうして、娘たちがいまより5、6歳若かったころのこと。
晩ごはんのあと、食器を洗いながら、ふと、
(娘たちのうちの誰かに彼氏ができたら、食器洗いを手伝ってくれたりするだろうか)
と思いつき、それを入口に、妄想の森へと歩みだす。
(食器は洗わないけど、食器を洗うおかあさんのそばで、歌をうたいますよ、なんていうのもいいねえ。くくくくく)
そこで、ラジオから流れてきたのが、「平井堅」うたう「大きな古時計」。
(ああ。手伝ってくれなくっても、こんなふうに近くで歌ってくれたら、うれしいかも……)
しかし、あと片づけを手伝ってくれそうな彼氏も、わたしの横で歌ってくれそうな彼氏もなかなか登場しないうちに、食器洗い乾燥機がやってきた。
かの日、食器を洗いながらうっとり聴きほれた「平井堅」の歌声にちなんで、「けんちゃん」と命名。
けんちゃん、毎日、ありがとうね。きょうは、わたしが何か、歌ってあげるよ。
けんちゃんです。
けんちゃんの前には、けんちゃん稼働中に出た「使用済み食器」を、
手で洗ってのせておく小さな棚があります。
何もかも、けんちゃんに洗てもらおうしないで、
このごろは、わたしも洗うんです。
けんちゃんの下(流しの奥)には、
手を洗うせっけん、金だわし、スポンジがいます。