あわてん坊だし、おっちょこちょいだし、せっかちだし、およそ大人らしい落ち着きの不足がちなわたし……。
一度動きだすと、拍車がかかり、どんどんスピードが増していく。
減速しよう、止まらなくちゃ、と思う。
そういうときは、つまり自分にブレーキをかけるときに効くのは、煎茶だ。
居間にある、小さなつくり付けの棚から、茶筒と急須をおろして、お茶をいれる。朝沸かして、ポットに入れておいた湯を、湯冷ましに注ぎ、しばらく待つ。お茶どころ静岡県の川根町(島田市だろうか、大井川沿いの町)のお茶屋の若奥さんにおしえてもらった手順を、思い返し思い返しお茶と向きあっているうち、逸(はや)るこころが、ほぐれ、のびていくのがわかる。
湯冷ましの湯を急須に注ぐ。
このときの湯の温度? 急須の底をてのひらにのせたとき、熱いけれど、持てないことはない、というほどの温度——とのことだ。
葉がひらくのを待って、ゆっくり湯冷ましにお茶を注ぐ。湯呑みにではなく、湯冷ましに、だ。
これを小振りの湯呑みに注ぐ。
そっと、湯呑みに口をつける。
熱くもない、ぬるくもない、香り引きたつ煎茶が、沁みる。身にも、こころにも……。
ふだん使いの急須(茶葉には、ふだんも客用もない。これには、ほんの少しぜいたくをしている)ののった小さな棚には、ほかに、絵はがきの入った小さな額、子どもと散歩の途中で拾った木の枝、ロウソク立てが置いてある。
絵はがきの額のことだけど、それは、「熊谷守一(くまがい・もりかず)」(1880-1977 没年97歳。東京豊島区の自宅跡に「熊谷守一美術館」がある)の「仏前」という絵。ご長女の萬さんが亡くなったとき、供えたという鶏の卵を描いたものだ。
熊谷守一というひとの、誰が相手にしてくれなくとも、石ころひとつとでも、じゅうぶん暮らせる、というような生き方が好きだ。
「石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます」と熊谷守一氏は述べている。
ほんとうに、ただ自由に自分の時間を生きることだけを望んだ生涯だった。
話は、かなりはしょることになるが、そういうわけなので、この世から旅立った親しいひとたち、あるいは面識こそなかったけれど尊敬するひとびとへの気持ちを、そこに集める意味で、この「仏前」という絵はがきを飾ることにした。
毎日、子どもたちが「ね、もう、誰か、お水、あげた?」と言いながら、お水を供えている。酒や茶、新米やめずらしい茶菓を供える日もある。
ここは、そういう棚なのだ。
この棚は、急ぎたがるこころを引きとめ、静かに立ち止まらせてくれる。
わたしの、たより。
拠所(よりどころ)……。
これが、その、棚です。
愛用のポット。おそらく40年近く使っている「アラジン」です。
もっと保温性の高いのとか、注ぎやすいのとかあるかもしれないけれど、
ここまでつきあったら、「共白髪」です。
急須、湯冷まし、湯呑み。
湯冷ましが2度働く(1回め—湯をさます。
2回め—湯冷ましに茶を注ぎ、湯呑みへ)ことを
知ってから、
お茶をいれるのが楽になりました。
急須のなかのお茶を、湯冷ましに移すことによって、
1煎ごとに決着するからでしょうか。
こうして、4煎までたのしめます。
湯呑みが小さいのも、なかなか具合がいいです。
酒坏(さかつき)も、使えそうです。