期日が迫っている。
いつもと毛色の異なる仕事ということもあって、とまどっている。その上それは山のように積まれ……、うんざりしかかっている。そんなことを云うのは(思うのも)不謹慎だと知りながら、どうにもならない。こういうときは、ともかく自分を机の前にひっぱってゆき(ときにはずるずるひきずってゆき)、なんとかその気にさせる。
——何にしたって、これをしてしまわなくては、先にすすまないし、気が晴れないでしょう。
と、説得にかかる。
——わかってるってば。やります、やりますよ、すぐにね。
わかってるってば、ときっぱり云いながら、わたしは自分の目を盗み、書斎から出て居間兼食堂のほうにふらふらとゆく。
ここで、食器棚のガラスに布の覆いをすることを思いつき、いさんでとりかかる。背の高い食器棚の上段に、以前は茶道具やグラス類を納めていたのだったが、これではいけないと考えるようになった。東日本大震災の直後のことである。割れものである茶道具やグラス類は食器棚の下方にしまい、上段には、ひとりでに扉があいてなかのものが飛びだしても困らないものを納めるようにした。
そうしてみると、ガラス扉越しに見えるなかのものの様子が、芳(かんば)しくない。茶道具やグラス類のときには陳列窓のようだったのだが……。
そういえば、そのむかし、祖父母の家の茶箪笥のガラス扉(の内側)に和紙が貼ってあった……。
——とりあえず、和紙を貼っておこう。
と思い、全紙(和紙の、漉いたままの大きさ)を縦半分に切り、四隅に糊をつけて貼った。間にあわせにしたことではあったけれど、わるくない光景だった。何より、こうしようと思いついてはじめた作業が、連なってゆくのがうれしく、作業の選択がまちがっていなかったような心持ちになるのだった。
和紙を貼りつけてから、1年と少し。そろそろ間にあわせでない状態にしたいものだ。ここ数か月、そんな思いを募らせていた。布をしまっておくひきだしをあけると、誂(あつら)えむきの布がみつかった。
——なぜ、この布に気がつかなかったのだろう。
と思う。
同じ胸のなかで、横から声がする。
——しなければならない仕事があるいま、こんなときに、気がつかなくてもよさそうなものだ。
と。そんな声は訊かなかったことにして、わたしは、またしても作業の選択がまちがっていないばかりか、応援されているような心持ちになって、つき進む。
実際にガラス扉に布を当ててみると、明るくてなかなかいい。
ガラス扉の内側に黄色い布を貼りつけ、少しはなれた場所から眺める。腕組みをして、悦に入っているのである。
——模様替えは、なんてたのしい……。
と、しみじみする。
——しなけらばならない仕事があるいま、こんなときに、これまで幾度ももったことのある感想をしみじみつぶやかなくてもよさそうなものだ。
またしても、横あいからことばが入る。……やれやれ。
わたしはしかし、ガラス扉の模様替えにすっかり気をよくして、模様替えをつづけたくなっている。いや、すでに腕が背の低いチェストを持ち上げている。そうして1時間あまり脇目もふらずに立ち働いてみると、居間兼食堂に、あらたなる空間が生まれているではないか。模様替えが、首尾よくいったというわけだった。
突如思いついたことをひとりで実行にうつしたとなれば、家の者たちの驚く顔が見たくなる。誰か帰ってこないだろうか。そわそわしながら待っている(とうとう書斎へは行かずに)。
あ、二女が帰ってきて云ったことには——。
「模様替え? さてはお母さん、きょう、宿題をしたくない子どもみたいになったな。そうでしょう」
「……う」
模様替え、模様替え、と思いながら
(思おうとしながら)していたその作業の動機が
「宿題をしたくない」だということ、うすうす気づいていました。
開きなおるわけではないのですが、
そんな抜き差しならぬ状況をも、
気分をも救ってくれるというわけです、家のしごとは。
しかも、ほんのちょっとした模様替え、かすかな変化が、
たいそう大きな作用をします。ね。