テーマ:映画館で観た映画(8351)
カテゴリ:映画
知っていましたか? かつて甲子園に台湾代表が出場していたことを・・・。 日本統治時代の台湾。 1929年に誕生した日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民による嘉義農林野球部は、新任監督の近藤兵太郎(永瀬正敏)を迎え、彼の出身高である松山商直伝のスパルタ式訓練で甲子園進出を目指すことになった。 のんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤の鬼のような特訓を1年間続ける中、連敗続きの野球部員も次第に勝利への強い意志が沸き出し、甲子園出場の夢を抱くようになっていく。 そしてついに1931年、台湾予選大会で連勝、日本人のみの常勝チームであった台北商業を打ち負かし、嘉義農林は南部の学校で初めて台湾代表大会で優勝する。 台湾代表チームとして日本へ遠征、夏の甲子園大会に出場した嘉義農林は勝ち進み、決勝へと進出するが惜しくも敗退。 だが観客席からは「戦場の英雄、天下の嘉農」と熱い声援が送られた。 嘉義農林の、1球たりとも諦めないそのプレイは5万5千人の大観衆の心を掴み、嘉農躍進の話題は日本中に広まっていくのだった……。 3時間を超える長い映画だったが、ダラダラしていない素晴らしい映画だった。 「実話なのにファンタジー」という映画のレビューがあったが、本当に小説か漫画みたいな展開だ。 草野球チームみたいな監督もいない台湾の弱小チームが甲子園に行くのだから・・・。 しかも、準優勝するのだから・・・。 KANO(カノ)とは、嘉義農林の略。 書きたい事は沢山あるが、なぜ弱いチームが強くなったかということを書いておく。 選手の身体能力が、優れていたということ。 しかし、その選手を見つけたのは、近藤監督。 その第一は有望な選手を野球部に集めることである。 その第一が台湾原住民選手の獲得である。 当時「蕃人」とも、後に「高砂族」とも呼称された原住民の運動能力、野球への適性は、一部野球関係者には「能高団」(花蓮港のアミ族野球チーム。大正14年日本に遠征)の経験などを通じて知られていたようである。 近藤は監督就任以前から、アミ族が多く住んでいる台東にまで選手のスカウトに出かけたそうである。 こうして、嘉義野球部の初期メンバーである上松耕一、東和一、真山卯一などが嘉義農林に入学してきた。 近藤はまた、校内の他のスポーツ部からも選手を勧誘している。 テニス部からは蘇正生、マラソン選手からは平野保郎、真山といった具合である。 こうして集めた有望な素材としての選手たちを、近藤が短期間に鍛えあげ、傑出したチームに育てていったことは今ではよく知られるようになった。 今、優秀な相撲力士を求めて、モンゴルまで原石探しに行くのを思いだした。 当時、日本は、「台内共学」という方針をとっていたが、実際は、 日本人、中国人、原住民と学校が別れていて、三つの民族が一緒に学ぶ嘉義農林は台湾にあって、特殊だったらしい。 甲子園では、自分の故郷以外だと、遠来のチームを応援する。 台湾の名もないチームが来た、しかも強いとあって、甲子園は、KANO旋風が巻き起こった。 ★「学生野球の父」と言われた飛田穂洲は 「敗れて悔なき台湾の健児」の見出しのもとに、 「突如として台湾の一角に興り、目にあまる大敵の真唯中に思うさましし奮じんの勇を示し経験ある諸チームを尻目にかけての奮闘は何人もこれを賞賛せずにはおかぬであろう」 吾等は「この健気なる嘉軍選手の前途に随喜して夕陽の甲子園に少年勇士を見送りつつある」といささか感傷的ともいえる「総評」を書いた。 ★作家の菊池寛は「甲子園印象記」で 「僕は嘉義農林が神奈川商工と戦った時から嘉義びいきになった。 内地人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため協同し努力しておるという事がなんとなく涙ぐましい感じを起させる」 「実際甲子園に来て見るとファンの大部分は嘉義びいきだ」と書いている。 惜しくも優勝を逃した、嘉義農林の選手たちに、 観客席からは 「戦場の英雄、天下の嘉農」と熱い声援が送られた。 いつの時代も甲子園は敗者に優しい。 ■海角七号 君思う、国境の南■ の監督が歴史に埋もれていた事実を発掘し、脚本を書いたが、監督はしていない。 ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.01.31 11:14:08
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