ドシャンベに着くまで そして住居のこと
2004~2005の思い出 日本からタジキスタンまでの 経路2004年時、日本にタジキスタン大使館がないので、まず成田からウズベキスタンのタシケントへ飛びましたそしてウズベキスタンにあるタジキスタン事務所で入国ビザをとりました。ウズベキスタンからタジキスタンへの飛行機便はありません。両国は その頃はあまり仲はよくありませんでした。だから陸路をタクシーで山越えしてタジキスタンのホジャンド入国しました。タクシーはタジキスタン日本大使館の方が手配してもらっていましたが、運転手さんと私たちは全く言葉の通じないので大変でした。このタクシーでの山越えの行程は不安と緊張とでスリル満点。幾つかの検問所を抜け、未知の世界に入る楽しさでワクワクしました。そしてタジキスタンのホジャンドに入国し、今度は国内線で首都ドゥシャンベに飛びました。タジキスタンは国土の93パーセントが山です。草原と山山、山、山、窓の景色は壮観で、あの山の向こうがタジキスタンと思うとドキドキしました。 タジキスタン国内線 ホジャンドからドウシャンベへの飛行機は 何時落ちてもおかしくないような旧式の小型飛行機でした。 空港には日本大使館員が迎えにでていてくださっており、ほっとしました。日本の大使館は10人ぐらいの方が 働いておられ、随分私たちを助けてくださいました。他の在タジクの人も入れて日本人は全部で20名ぐらい でした。皆、ジャイカとか国連とか、ユネスコ派遣の方なので住居や 給料も安定していましたが、私達は境遇が違い大変な苦労がここからはじまりました。家探し/ 引っ越し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最初の家主さんウスモンさん一家大学側が探してくれた家でしたが、家賃が高いということで一週間で出されてしまいました。ウスモンさんに非はなく とてもいい頑固親父でした。大学側と家賃でおり合わなかったようです。ウスモンさんは町内の寄り合いやパーテイーによく誘ってくれました。テレビもあり 外国放送をよく見せてくれました。ウスモンさんは本気で私たちを受け入れてくれたのに、残念でした。近所の子供たちも「ハロー」と近寄ってきました。家の手伝い、兄弟の子守をし、けなげな子供たちでした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・住居無し?私たちを派遣した日本のボランテア協会は半年ほど前 日本人の事務長さんがわざわざタジキスタンまで来て 大学と書類を交わしボランテア派遣の契約を正式に結んでいます。日本でボランテア協会の説明は「給料は少ないけれど、住居は用意されます、大変でしようがボランテア精神で頑張ってください」といわれたので、それならと決心し はるばるタジキスタンまでやって来たのでした。タジキスタン到着後、住居がなかなか決まりません。何故 何度も引っ越しさせられるのか?その意味が しばらくして やっとわかってきました。大学側は 私達に住居を提供する気持ちはなかったのです。「日本人はお金持ちだから、ボランテアだから 住居は自分で探してください。探すお手伝いはしますよ。200ドルぐらいの物件ははいかがですか?お給料もお金持ちボランテアだからいらないですよね?」やっと大学側の 本心がわかり びっくり仰天!最も、他の近隣の国、中国、ロシア、韓国などの日本語教師は、国やその国のジャイカのようなところからの派遣されているので、大学は楽だったのです。教師たちはホテルから通勤していました。日本はその頃、ジャイカでさえ タジキスタンへの派遣はありませんでした。日本から遠い遠い国で、まだ危険な場所だったし、日本にはなんのメリットもない国だったからです。・・・・・克敏は 学生を通訳に 懸命に 契約違反を訴えますが らちがあきません。私は 何度もの引っ越しで疲れはて、下痢が始まり、日に日に体重が激減してきました。克敏は 私だけの帰国を勧めましたが。私は「頑張る!帰る時は二人で」と彼に言いました。その時 助け船を出してくれたのが 学生フエルザのお父さんでした。病床の私たちは1週間も彼女の家にお世話になり、おかゆを食べさせ介護をしていただきました。その後、お父さんの好意で自分の持っている古いあき家を 掃除して 安く貸してくださることになったのです。お金は要らないといわれましたが 50ドルだけ受け取っていただくことにしました。本当に助かりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・フィルザ一家 5人兄弟です。典型的なイスラムの暖かい家族でした。最後まで真心でつきあってもらいました。忘れられない人たちです部屋の様子タジキスタンは長い間 ソ連の一部でしたから、貸家の作りもロシアの名残がありました。このスチームはロシア時代のもので、独立後 スチームは流れないので現在は使用されていません。オーブンも使用不可でした。トイレは水洗でしたが、水の流れが悪く、バケツで流しました。お風呂はシャワーですが ほとんど湯は出ず、湯を沸かして体にかぶり洗いました。ガスは朝2時間、夕方2時間だけ出るとのことでしたが 後半の6ヶ月は停止して、頼りは電気コンロだけでした。それも停電の時は全くお手上げでした。部屋代は家主さんの好意で電気代電話代こみで月50ドルにしてもらいまいた。(ちなみに私達の給料は克敏の懸命の交渉のすえ二人で月40ドルだけもらえることになりました)インターネットは個人で契約を結び 電話回線を使いました。つながるのに非常に時間がかかり苦労しました。使用料金も毎月100ドル前後かかりまいた。理由もなく突然不通になるのには参りました。こうして 始まった生活ですが、 食費はかかるし、持ってきたお金はどんどん消えていきます。 最後の出費、帰国の飛行機代をきりくずし、 だんだん心細くなりました。 その頃は 日本からタジクへの送金システムはありませんでした。最後は 大使館の職員から借りる、と決めました。帰国後の返済で可というありがたい好意に感謝し二人で一年を乗り切ろうと意をかためました。それでも、この不便な生活の中、タジキスタンでインターネットが使える事は本当に幸運なことでした。タジキスタンでインターネットを使う人はまだ少なく会社関係の人ぐらいでした。タジクの郵便機能は落ちていて手紙はほとんどあてになりませんでした。日本の家族や友人との連絡は全てインターネットでやりました。テレビも部屋にはありません。私は、パソコンで 多くのパソコン画を描き続けました。娯楽といえば、日本大使館に駐在員が置いていった本がたくさんあり、小さな図書棚に並ぶ文庫本やDVD借りることができました。外国の推理小説が多かったきがします。日本のDVDもあり、パソコンで家庭シアターを二人で楽しみました。タジキスタンで「ダーテイハリー」や「寅さん」を鑑賞するのはふしぎな感覚でした。学生の父母からの ナンや 果物の差し入れがありました。私達が帰国を考えた時、 学生たちが 「帰らないでください。お願いします!僕たちにとっては はじめての日本人の先生です」と集団で訴えた時の あの美しい 若々しい瞳は 忘れられません。このタジクの学生達との一年は 私達にとっても 素晴らしいものでした。人生でもかけがえのない一年となりました。今も学生たちとは付き合いがあり、facebook で交流しています。 ちなみに、 私達が所属した 日本のボランテア団体からは 私たちの後は タジキスタン希望者は一人もありません。10年ほど前、やっとやっとジャイカが腰をあげ 日本人教師を派遣するようになりました。ジャイカは交通費、給料、住宅、健康保険付きで 私たちの条件とは雲泥の差です。それにもかかわらず、一年間続ける 志願者はいないようです。//////////////////////////////////////////////////////////