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  新 つれづれ日記     

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2009年05月14日
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カテゴリ:
「母の夢は果てなく明日に」その7 

     1981年 母の友(福音館) 3月号掲載

otouto 父戦死の通知の頃 3歳の弟を抱いて

  母の躾

母の嫌いなことは、卑怯なこと、自分を甘やかして人に迷惑をかけることだった。
こんな貧しい生活の中でも、物を貰うより、人にあげる方が好きだった。
たまに知り合いから「あんたと子どもだけで食べるんだよ」と内緒で甘いものなど頂くことがあっても、周りの人と分け合って食べるという風だった。
「ボロは着てても心は錦」という演歌があるが
母は幼い私にも「王者の妻」の心意気を話してくれたものだ。


例えば お皿に盛ったミカンを皿をまわしながら一人づつとって行くとする。自分の前にお皿がきたら一番小さなものをとることのできる子になりなさいと母は躾けた。
自分の心に勝つ、人のことを思うということだったと思う。

生活が忙しかったこともあるが、そういう母の気性からか、子育ては実に荒っぽく、大まかであった。「勉強しなさい」と言われたことは一度もない。
まるで自分の子なら「勉強ができてあたりまえ、むしろ精神を鍛える」ということに重きをおいていた感がある。

私には抱かれたり、愛撫してもらったり、といった優しく甘い母親の思い出がなく、厳しい母だけが浮かんでくる。

朝起きると、真冬でも雨戸をいっせいに開け、外の冷たい空気を部屋1杯に入れ込む。そうするのが気持ちがいいと母は言うが、生活を厳しく律しようとしたのだと私は思う。
子どもには寝巻きの下には何も付けさせなかったし、冬でもなるべく足袋をはかないようにした母の姿を思い出す。

幼い頃私が泣くとわたしの頬をなでながら
「我慢!我慢!ホラ歯をグーッとかみ締めて、声を出さないように!
ホラ我慢できたでしょ。お前は強い子だ。ほら悲しかったのはどっかに飛んでいっちゃたー」
とささやいたものだ。
女の子はがまん強くなくちゃと母はよく言った。

それに、我が家には薬箱というものがなかった。怪我をすれば赤チンキで消毒するだけ。
あとは自然の力に任せるというわけだ。

おかげで私たち3人の子は小中学校の9年間は無欠席で過ごした。
「あなたたちの健康は一番の親孝行だった」と母はよく言っていた。

母は授業参観など学校行事に顔を出す暇はほとんどなかった。
今になって母は、母親としての細々とした心づかいをしてやれなかたと、とりわけ娘の私に謝ったりする。

確かに私は強い女の子に育ったかもしれない。
母の気持ちはわかるけれど、私はむしろ母に感謝している。
なにより健康な身体、労働を厭わぬ心、苦しい時も乗り越えていく気力、自分を律する力、そして自立心という大切なものを母から貰ったのだから・・









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最終更新日  2009年06月07日 12時12分19秒
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