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カテゴリ:母
「母の夢は果てなく明日に」その6
1981年 母の友(福音館) 3月号掲載 暮らし 川青く 相良の町の 蔵白し 蓮(はちす)の池に 浮かぶがごとし 人吉は、与謝野晶子がこう歌った美しい城下町。 母が小林時代に世話わかけた叔母一家が人吉に移り住んでいて私たちを祖母代わりとして、 何くれとなく面倒をみてくれた。 それにこの一番苦しい時に、父方の親戚や父の友人たち、近所の方々の差し伸べてくれた 暖かな手を一生忘れないと母はいう。 しばらく衣類や父の形見のカメラなどを売り食いしていたが、底をつかないわけがない。 それからは温泉の番台を手伝わせてもらったり、石鹸や佃煮の行商をしたり焼き芋やをやったりした。 私と弟も小学校に上がると、温泉の脱衣場の掃除をして、その頃、つき300円もらった。 それで毎月雑誌「少女の友」を買い、学校に必要なお金の足しにもした。 兄は鶏や兎を飼って家計を助けた。 1匹の秋刀魚の身を子どもたちが食べ、母が最後に骨の付いた身をしゃぶるといった食事が何度もあったと思うが、それが少しも悲しい思い出ではない。 しかし母は一人で三人の子を育てていくことに、疲れ果てる日も、悲しい日も、また今思えば女としての悲しみもあったと思う。 私が小学高学年になった時だったか、あれは雪の降る暗い寒い夕方だった。 母は真っ赤なしもやけ様の手をして、コタツに炭を足していた。 私たち兄弟は理由はなんだったかわからないが、コタツのまわりでつかみ合いの喧嘩をはじめ、それぞれの正当性を母に訴えていた時だった。 母が突然うつぶせになって「おいおい」と声を上げてと泣き出したのである。 「お母さんはもう知らない。あんたたちは好きにしなさい!お母さんはもう家を出て行く」と・・ 私たちは母の泣く姿に驚き、呆然と立ちすくんでいたのを思い出す。 ・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年05月10日 09時27分54秒
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