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カテゴリ:母
「母の夢は果てなく明日に」その9
1981年 母の友(福音館) 3月号掲載 仕事の鬼 私は短大卒業、仕方なく母の元にもどり、地元の病院の栄養士になった。その病院の院長は父の中学時代の後輩で、可愛がってもらった。 再び朝夕の家事は私の仕事となった。 思えばこの数年間は母と娘の蜜月だったかもしれない。 しかし、わたしは何かものたりないものを感じ、武蔵野の美術短期大学の通信教育を受け始めた。 そして数年たち 「いつか故郷から飛び立ちたい」という私の密かな願望を実現させてくれたのは私の夫である。夫が私を故郷から連れ出してくれた。 私は東京で新しい生活が始まるということがどんなにうれしかったことか。結婚を決意し母に伝えると 母は冗談交じりに 「20何年もかかって育て、一緒にくらしたおかあさんより Kさんのほうがいいのか?」と私に聞いた。 私は 「ごめんね。おかあさんより ちょっと彼のほいがいいから」と答えた。 母は「仕方ない 行ってしまえ 行ってしまえ」と泣きそうな顔で言った。 それでも いよいよ、頼まれ仲人の私の親友のご両親 が私の家のに正式に来られる日 母は「玄関には鍵をかけとく」と半ば本気で言った。 私は今でも、その時の母の心境を思うと切なくなる。 私は後ろ髪を引かれる思いで、母から故郷から飛び立った。 そのうち 母は住み込みの事務員さんに来てもらって化粧品の仕事を続けた。 母の仕事への情熱は、子どもたちが独立し経済的、家庭的な束縛から解放された50歳をすぎてから、ますますエスカレートしていった。 自分で企画を立て、自分の判断で事を運び、ひとつひとつの目標を達成していく。 いわばそれは創造の世界で苦しい中に喜びがあるからこそ、だんだんとのめりこんでいったのだろう。 仕事の鬼といえばこんなことがあった。 私の初産の時はやはり実家の方がいいからというので、私は東京から人吉に帰省した。 いよいよ陣痛が始まり、母にすがりたいという時になって 「今日はどうしても一泊で仕事に行かねばならない。 あんたなら大丈夫。頑張るのよ。しっかりね。」 と早朝熊本に出張に出て行ったのである。 「これってありー??」私は母の薄情さに涙がこぼれるおもいだった。 「私、何のために帰ってきたのー」と 幸い夫の母が同郷なので、初孫の誕生とあって、誠心誠意で私につきっきりで、腰をさすったり、汗をぬぐったりして、かいがいしく世話をしてくれた。 しかし微弱陣痛でなかなか産まれず、結局母はお産にも間に合ったのだが、今度は 娘がウーウーうなっているのに 「汗かいたからお風呂浴びてくるね」とまた病室を出て行った。母は初孫の誕生を湯船の中できいた。 今思うに、仕事に夢中な時期でもあったが、母は娘が可哀想で見たくなかったのかもしれないし、かなりの照れ屋なのかもしれない。数年経って 「あの時、お母さんが二人いらないでしょ。 あちらのお母さんは大張り切りだったから、おまかせした方がいいと思って、私はわざと遠慮したのよ」とぽつりと言った。 でも初めてのお産、産婦の本音はやっぱり 実の母にこそめんどうをみてもらいたいよねー。そのためのこそ帰ってきたのに。 私は御姑さんの前で「こんな痛いなら結婚しなければよかった!」とわめく、はしたない産婦であった。 とにかくそのことがあってからは、自分のことは自分でと心に決め次のお産からは母を当てにしなくなった。 故郷人吉の風景 道子のメインHP http://www5e.biglobe.ne.jp/~tianduan/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年06月07日 12時08分26秒
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