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カテゴリ:五日市の頃
五日市合唱祭に初参加した時の「五日市高尾混声合唱団」。 メンバーは12名 五日市町唯一の混声合唱団でした。 指揮をする夫の若かったこと!。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私達の働き盛りであり、子育て時代の大半の20年を東京都西多摩郡五日市町で過ごしました。山と川と歴史に恵まれた美しい町でした。 今は秋川市と合併され、あきる野市五日市町となりました。五日市町は江戸時代 市がたった古い町なのに、こうして消えていくことは残念です。 私達は忙しい生活の中でも大いに子育てと人生を楽しみました。夫は書、私は絵をづっと続け個展や夫婦二人展を何度かやりました。。 また近所の6家族でグループをつくり、子供も交え20人位で、春夏の旅行、ハイキング、お茶会、運動会、餅つき、食事会、飲会、カラオケ会などを楽しみました。 夫は高尾ソフトボール部に入り、子供達は高尾少年、少女ソフトボール入っていました。指導は夫たち若い父親です。 また空き地でバレーやバドミントンも楽しみ、合唱団もつくり、五日市で沢山の友人をつくることができました。 私の住んだ町高尾地区は街中心から少しはずれ、もともと農村だったところに若い世帯が家を新築し移り住んだ地域でした。 元からの住民も新参者を快く受け入れてれ、村祭りなどにもよ新住人も参加し、屋台を出し、盆踊りなどにも参加しました。 町のバドミントン大会に出て、その打ち上げ会を我が家でやったとき、若い住人達の意気があがり、わが地区にも「合唱団」を作ろうという話になりました。 話はとんとん拍子でまとまり、夫が中心になり進めることになり、我が家で練習がはじまりました。夫は大学の時 音楽教師の免許も取りたいと思ったぐらい音楽好き、結局アルバイトと書道に忙しくなり音楽教師免許は断念したようで、ピアノも簡単な曲なら弾けます。 最初は5人から初めました。近所の農家の奥さんにもよびかけました。夫が指揮、選曲などをし男声は二人だけ。美しいテノールの高校教師Tさんが発声指導でした。夫はバスをうたいながらの指揮なので大変。、ともかく高尾混声合唱団が誕生したのです。 しかし毎週、金曜日の我が家での練習は大変でした。その頃私の仕事は雪印でしたので夜は家にいましたが、皆が練習に来る夜7時半までに12畳の居間を合唱練習場に解放しなければなりません。 当時まだ小さかった子供達を居間から追い出し、寝室に入れるのが大変でした。夜の7時半では子供達は眠くもないのに、寝かされ、おまけに全然ハモっていない奇妙な合唱の音色を無理やり聴かされるわけです。 今になって、子供達は 「金曜日は地獄だったよ。寝ろ!なんて言っても無理なことだったよー、あの奇妙な音と雑音に俺達もよく耐えたよなーー」と笑っていいました。 でも子供達の協力のおかげで 高尾合唱団は人数も増え、レベルもあがり、西多摩では髄一の混声合唱団に成長していきました。 高尾合唱団の曲は「遥かな友に」にしました。「静かな夜更けに何時もいつも、思い出すのは お前のこと」という歌詞です。 最初、「ふるさと」「フォスターの曲」などから、だんだん「筑後川」などの合唱組曲なども歌えるようになりました。 ・・・・・・・・・・・・・
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最終更新日
2011年02月16日 10時29分10秒
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