八月十五日
我々日本人(将来を含む)が決して忘れてはならない日の一つ八月十五日が今年も巡ってきた。私は、例年の如く靖国神社で、英霊の方々に「いま日本人であることの幸せを感謝するとともに、後は我々が引き受けます。安らかにお眠りください」と感謝の誠を捧げ、自らの覚悟を示してきた。英霊の方々は、若くして亡くなられた方が多く、直系の子孫を持たない方々が多い。そう我々すべての日本人は、英霊にとって、自らの命を捧げて守り通した祖国日本で生まれ育った。いわばいぞくのようなものである。命を捧げる検診あったればこそ、我々は、日本人として誇りを持つこともでき、悠久の歴史を自らのものとすることができるのである。祖国日本は、今を生きる我々の専有物では断じてない。過去と未来の日本人のものでもある。現在を生きる我々の欲望のまま、我儘放題で先人の名誉を不当に貶められたままにしてよいのか?将来の日本人に要らざる負い目を負わせてよいのか?我々には常にこのような視線が注がれていることを断じて忘れてはならない。と同時に英霊の方々は、自らの命を犠牲にして守った祖国日本の後世を生きる我々に「どうだ?祖国は良い国になっているのか?立派な国になっているのか?」と問われ続けている。それに対して、今は自らの国をみずから守ることができません。米国の助けをもってやっと、守れています。など、どうして、笑顔で答えられよう。申し訳ない思い。そこにあらねばならない思いであろう。大東亜戦争は、過去の話、歴史ではなく、今日の時事問題でもある。先人の歴史を悪意ある非難から守らなければ、未来の日本人を守ることはできないのである。我々の昇殿参拝を終えるのを待っていたかのように、今にも泣き出しそうな空から雨粒がこぼれてきた。文責 上田 和哉